「エマニュエル・シャブリエ」の版間の差分

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1880年、[[ミュンヘン]]において、[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]の[[楽劇]]『[[トリスタンとイゾルデ (楽劇)|トリスタンとイゾルデ]]』を観たことで、音楽の道に専念することを決意したという。『トリスタンとイゾルデ』の動機を使った作品として、1886年に[[アンドレ・メサジェ]]との共作による[[連弾|4手]]のためのピアノ曲『ミュンヘンの思い出』が残されている。メサジェには、フォーレと共作した『バイロイトの思い出』(こちらは『[[ニーベルングの指環]]』を扱っている)という同趣向の作品もある。シャブリエは39歳で内務省を退職し、作曲家としての活動を本格的に開始した。
 
== シャブリエの音楽の特徴 ==
== 狂詩曲『スペイン』 ==
1882年、妻とともに4ヶ月間[[スペイン]]に滞在し、このときの印象をもとに作曲したのが狂詩曲『[[スペイン (シャブリエ)|スペイン]]』である。6分ほどの短い曲だが、沸き立つようなリズムと歌、輝かしいオーケストレーションに彩られ、初演時から熱狂的に迎えられた。現在も演奏会の重要なレパートリーとなっている。また、スペインを題材にした管弦楽曲としては、[[クロード・ドビュッシー|ドビュッシー]]の『[[映像 (ドビュッシー)#イベリア(Ibéria)|イベリア]]』、[[モーリス・ラヴェル|ラヴェル]]の『[[スペイン狂詩曲 (ラヴェル)|スペイン狂詩曲]]』、『[[ボレロ (ラヴェル)|ボレロ]]』などの先駆ともなっている。
 
== [[楽しい行進曲]] ==
晩年に近い1888年に「フランス行進曲」というピアノのための作品として書かれた。仲間たちと徹夜で呑んで朝帰りする際に思いついた曲だという。2年後、「楽しい行進曲」と改題し、自身の手で管弦楽版に編曲した。
 
== シャブリエの音楽の特徴 ==
シャブリエは53歳で没したが、前半生はサラリーマンであり、作曲家としての活動期間は14年と短く、発表された作品数は限られている。狂詩曲『スペイン』をはじめとした管弦楽作品やオペレッタなどの作品があり、いずれも独特のリズムに加え、闊達さとユーモアを感じさせる。しかし、シャブリエの本領が最も発揮された分野は、ピアノ音楽と考えられている。その[[和声]]は大胆で、音楽史的にもフォーレとともに、次世代のドビュッシー、ラヴェルへの橋渡しの役割を果たしている。
 
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=== 管弦楽・協奏的作品 ===
*狂詩曲『[[スペイン (シャブリエ)|スペイン]]』(1883年)
:1882年、妻とともに4ヶ月間[[スペイン]]に滞在し、このときの印象をもとに作曲したのが狂詩曲『[[スペイン (シャブリエ)|スペイン]]』である。6分ほどの短い曲だが、沸き立つようなリズムと歌、輝かしいオーケストレーションに彩られ、初演時から熱狂的に迎えられた。現在も演奏会の重要なレパートリーとなっている。また、スペインを題材にした管弦楽曲としては、[[クロード・ドビュッシー|ドビュッシー]]の『[[映像 (ドビュッシー)#イベリア(Ibéria)|イベリア]]』、[[モーリス・ラヴェル|ラヴェル]]の『[[スペイン狂詩曲 (ラヴェル)|スペイン狂詩曲]]』、『[[ボレロ (ラヴェル)|ボレロ]]』などの先駆ともなっている。
*[[楽しい行進曲]](原曲はピアノ独奏曲、1888年)
:晩年に近い1888年に「フランス行進曲」というピアノのための作品として書かれた。仲間たちと徹夜で呑んで朝帰りする際に思いついた曲だという。2年後、「楽しい行進曲」と改題し、自身の手で管弦楽版に編曲した。
*田園組曲(原曲はピアノ独奏曲、1880年)
*ラルゲット(独奏ホルンと管弦楽のための協奏的作品、1875年)