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'''伊佐 為宗'''(いさ ためむね、生年不明? - [[承久]]3年([[1221年]])?))?)[[鎌倉時代]]初期の[[御家人]]。常陸冠者為宗。皇后宮大進。伊佐大進。
 
[[藤原北家]]の[[藤原山蔭|山蔭]]流で[[伊達氏]]の祖とされる[[常陸入道念西]]<ref>伊達氏初代の常陸入道念西を[[伊達朝宗]]とするか、[[伊達宗村|宗村]]とするか説がかれる。また伊達氏の出自については、藤原氏とする以外にも諸説がある。</ref>の。[[常陸国]][[伊佐郡 (常陸国)|伊佐郡]](現在の[[茨城県]][[筑西市]])を本領とした。
 
妹の[[大進局]]が[[源頼朝]]の妾となり、頼朝との間に男子([[貞暁]])を生んでいる。
 
[[文治]]5年([[1189年]])、源頼朝が[[藤原泰衡]]追討のために行った[[奥州合戦]](奥州征伐)に、弟の[[殖野為重|次郎為重]]、[[伊達資綱|三郎資綱]]、[[伊達為家|四郎為家]]とともに従軍する。[[8月8日 (旧暦)|8月8日]]、奥州方の最前線基地である信夫郡の[[石那坂の戦い|石那坂]]の城砦を攻略し、[[佐藤基治]]など敵18人の首を取り、阿津賀志山の経ヶ岡にその首を梟したという<ref>『[[吾妻鏡]]』には、[[佐藤基治]]が阿津賀志山で討ち取られたとも、生け捕りになって後に許され所領へ戻ったともある。</ref>
 
この奥州合戦の戦功により、伊佐為宗の一族は頼朝から[[伊達郡]]を賜った。為宗は[[伊佐郡 (常陸国)|伊佐郡]]に留ったが、念西と為宗の弟などが伊達郡に下って「'''伊達'''」を称し、[[伊達氏]]の祖となった。
 
[[承久]]3年([[1221年]])、[[承久の乱]]に従軍した為宗は[[宇治川]]の戦いで戦死した<ref>『[[吾妻鏡]]』に[[伊佐大進太郎]]戦死の記述があり、この大進太郎を為宗とする説と、その子息であるとする説がある。</ref>
 
==脚注==
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== 関連 ==
*[[常陸伊佐氏|伊佐氏]]
*[[伊佐城]]
*[[伊達氏]]
 
===一覧===
* [[鎌倉時代の人物一覧]]
 
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