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[[チェンセーン]]に作られたムアンはチェンセーン支分国(あるいはムアン・ヨーノック)と呼ばれ、南詔王国・皮羅閣王の息子シノナワットにより統治されたが、四代目国王バンカラットの時代に内紛が勃発し、[[1080年]]にクメール帝国に奪取されてしまう。バンカラット王はさらに南へ脱出し、[[1099年]]に息子プロマラットにより再奪還を成し遂げた。この勝利を記念し、ムアン・ヨーノックはヨーノック・チャイヤブリーと改名された。しかし、次代のチャイシリ王の時代には同じラーオ族の[[シャン族]]の襲来を受け、都市は壊滅的な打撃を受けた。チャイシリ王はチェンセーンを破棄し、今日のスコータイ周辺に新しいムアンを形成した<ref>壊滅した都市、チェンセーンでは地方土豪のラオ・サックラ・テワラットによって再興され、ヒラン・グラヤーンと名付けられ発展していった。</ref>。
 
このようにラーオ族のムアンは弱小勢力を迎合し、さらに強大勢力に攻撃を受けてはまた新しいムアンを形成するといった勃興を繰り返しながら歴史を重ねていく[[群雄割拠]]の状態にあったが、[[13世紀]]初頭に始まった[[元 (王朝)|元]]の進軍と、名君[[ジャヤーヴァルマン7世]]の死去およびその後継者争いによるクメール帝国の弱体化をきっかけとして大きな変化を見せるようになり、[[1238年]]、すでにスコータイとカーンペーンペット近郊にムアンを形成していた一族をバンクラン・タオが纏め上げてスコータイ王国を建国。次いで[[1259年]]、パヤオにムアンを形成していた一族とチェンラーイの一族が中心となり、[[マンラーイ]]を国王とするチェンマイ王国([[ラーンナー|ラーンナー王朝]])が建国された。
 
チェンマイ王国は建国当初は王都をチェンラーイとしていたが、すぐにファーンへ遷都し、その後[[1296年]]に今日の[[チエンマイ]]<ref>当時の名称はロッブリー・シーナコン・チェンマイで、チェンマイとは「新しい都」を意味する。</ref>を王都と定めた。しかし、マンラーイはチエンマイに定住することはなく、息子の一人を監督官に任じ、自身はチェンラーイから執政を行った。マンラーイ王の下、[[パヤオ王国]]を併合するなどチェンマイ王国はその版図を着実に広げていったが、パユー王の時代になると辺地の領主の離反が見られるなど、その権威は徐々に低下していった。同時期、同様に興ったスコータイ王国においてもウートンの領主、ルアン・パンヌアが離反を起こし、内部分裂状態になるなどしていた。
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その後、{{仮リンク|スワンナ・バンラン|de|Suvanna Ban Lang}}、{{仮リンク|ラーセンタイ・プワナート|de|La Sen Thai Puvanart}}が執政したが、プワナート王が死去した[[1495年]]は次期王位継承権のある{{仮リンク|ソムプー|en|Sompou}}は7歳という幼齢で叔父にあたる{{仮リンク|ウィスン・ナラート|en|Visunarat}}が実権を握った。ソムプーは9歳で即位するも3年後には死亡し、ウィスン・ナラートが王位を継承した。ウィスン・ナラートは[[1503年]]からウィスン・マハー・ウィハーン寺院の建立に着手し、マノーロム寺院に安置されていたプラバーン金仏像を同寺院へ移設させた。また、この次期には上座部仏教が大いに栄え、名僧と冠される人物も多数出現し、『[[三蔵経]]』の[[ラオ語]]訳や、[[テープ・ルアン]]による『クン・プロム伝説記』や『ターオ・フン物語』など文化的に大きな発展を遂げた。
 
ウィスン・ナラートの後は{{仮リンク|ポーティサラ・ラーサー|en|Photisarath}}が9歳で即位し、チェンマイ王国のヨート・カムティプ王女(Yot Kam Tip)を妻に迎えた。当時チェンマイ国王であったケット・クラウには男児が産まれず、ポーティサラ王の子が男児であった場合、チェンマイ王国の王位継承権を主張できる立場にあるとした。チェンマイ王国では{{仮リンク|ケット・チェッタラート|de|Ket Chettharat}}王(在位:[[1525年]]-[[1538年]], [[1543年]]-[[1545年]])が、[[1535年]]にMoen Soisamlanの反乱で失脚し、息子の{{仮リンク|タオ・チャイ|de|Thao Chai}}(在位:[[1538年]]-[[1543年]])が王となった。[[1543年]]にタオ・チャイが暗殺されると、Mueang Noiにいたケット・チェッタラートが再び復位したが、[[1545年]]にケット・チェッタラートも暗殺された。チェンマイ王国の派閥の領袖Khrao SaenがChiang Tungの王位を提供されたが拒否すると、Mueang Noiが介入したがKhrao Saenに暗殺された。<!-- その後[[1535年]]、チェンマイ王国において貴族セーンドゥによる謀反が勃発し、ケット・クラウ王が暗殺される事件が発生した。セーンドゥは自身の推すシャンの領主を国王に推挙しようとしたが、セーンドゥと対立した貴族ムンサラムーンがラーンサーン王国の王子を推挙したためチェンマイ王国を二分する争いとなった。この争いはヨート・カムティプ王女の働きによりムンサラムーン派が優勢となり、 -->女帝Chiraprapha or Jiraprabha(在位:[[1545年]]-[[1546年]]) (queen's reign)の即位。Chaiyachettha or Jayajestha(在位:[[1546年]]-[[1547年]])の即位。[[1548年]]、ポーティサラ・ラーサーの息子[[セーターティラート|セタティラート]](在位:[[1548年]]-[[1551年]])がチェンマイ王国の王位を継ぐ事で決着となった。
 
[[1550年]]、ポーティサラ・ラーサー王が象競技中の不慮の事故で死亡したため、ラーンサーン王国はチェンマイ王国に対し、セタティラートの帰国を要請した。要請を受け、セタティラート王はチェンマイ王国の王位を兼ねたままで執政をチラパー王妃に委任し、翌[[1551年]]にラーンサーン王国国王へ即位した。しかし、チェンマイ王国ではセタティラートに帰国の意思がないとして新しい国王を擁立する動きがはじまり、ナーンの領主であった{{仮リンク|メクティ|de|Mae Kut}}}が即位した。セタティラートはこの行為に対し、背信行為としてチェンマイ王国へ軍隊を侵攻させ、制圧を試みたが、メクティの勢力を排除するには至らなかった。こうした経緯でそれまで蜜月の関係を築いてきたラーンサーン王国とチェンマイ王国は悪化の一途を辿った。
その後[[1535年]]、チェンマイ王国において貴族セーンドゥによる謀反が勃発し、ケット・クラウ王が暗殺される事件が発生した。セーンドゥは自身の推すシャンの領主を国王に推挙しようとしたが、セーンドゥと対立した貴族ムンサラムーンがラーンサーン王国の王子を推挙したためチェンマイ王国を二分する争いとなった。この争いはヨート・カムティプ王女の働きによりムンサラムーン派が優勢となり、[[1548年]]、ポーティサラ・ラーサーの息子[[セーターティラート|セタティラート]]がチェンマイ王国の王位を継ぐ事で決着となった。
 
[[1550年]]、ポーティサラ・ラーサー王が象競技中の不慮の事故で死亡したため、ラーンサーン王国はチェンマイ王国に対し、セタティラートの帰国を要請した。要請を受け、セタティラート王はチェンマイ王国の王位を兼ねたままで執政をチラパー王妃に委任し、翌[[1551年]]にラーンサーン王国国王へ即位した。しかし、チェンマイ王国ではセタティラートに帰国の意思がないとして新しい国王を擁立する動きがはじまり、ナーンの領主であったメクティが即位した。セタティラートはこの行為に対し、背信行為としてチェンマイ王国へ軍隊を侵攻させ、制圧を試みたが、メクティの勢力を排除するには至らなかった。こうした経緯でそれまで蜜月の関係を築いてきたラーンサーン王国とチェンマイ王国は悪化の一途を辿った。
 
[[File:Ayutthaya Thailand.jpg|thumb|left|150px|アユタヤ王国は絶頂期を迎える]]
この頃の周辺動静として大きなものとして、[[1531年]]に[[ビルマ族]]が周辺諸族を制覇し、[[タウングー王朝|タウング王朝]]を興したことと、[[1540年]]にクメール帝国の首都[[アンコール・トム]]が[[アユタヤ王国]]の手におち陥落したことがあげられる。[[1557年]]にタウング王朝はメクティ王政権下で混乱期にあったチェンマイ王国へ侵攻を始め、[[1588年]]には王都チェンマイを占領、チェンマイ王国は以降タウング王朝の傘下となった。
 
[[File:Vientiane-pha that luang.jpg|thumb|200px|セタティラート王座像(ヴィエンチャン)]]
タウング王朝の躍進を目にしたセタティラートはタウング王朝がラーンサーン王国へ侵攻を始めるのも時間の問題とし、[[1560年]]に王都を[[ヴィエンチャン]]へ移した。ヴィエンチャンはタウング王朝の侵攻ルートからは外れている一方で、アユタヤ王国の領域に隣接しているというデメリットを抱えており、セタティラートはアユタヤ王国のマハーチャクラバット王に対し同盟を申し入れ、[[1562年]]、セタティラートがアユタヤ王国のテープ・カサティ王女を娶ることにより両王国に同盟関係が結ばれた。[[1563年]]、チェンマイ王国においてタウング王朝支配下からの脱却を求めて貴族セーンノーイらが挙兵したが失敗し、ラーンサーン王国へ保護を求めてきた。タウング王朝は彼らの受け渡しを求めたが、ラーンサーン王国はこれを拒否し、二国間の溝は決定的なものとなった。[[1567年]]にメクティが死去
[[File:That Louang Vientiane.jpg|thumb|left|250px|セタティラート王により建立されたタート・ルアン仏塔]]
[[1570年]]、アユタヤ王国を滅ぼしたタウング王朝は、[[1571年]]よりラーンサーン王国へ侵攻を開始し、王都ヴィエンチャンを攻めたが、食糧補給路の確保に苦慮し、撤退していった。セタティラートはこの侵攻をきっかけとして対岸のノーンカーイに避難したが、翌年病死した。その後王位をもつ{{仮リンク|ノー・ムアン|de|No Koe Kuman}}が幼少であったため、{{仮リンク|セーン・スリンタルサイ|de|Phra Nga Sen Sulintara Lusai}}がノー・ムアンの王位を継承する形で即位したが、セーン・スリンタルサイは平民出であったことから地方領主や住民に対しての威厳を保つことができず、国内は荒れることとなる。そのため、[[1574年]]のタウング王朝の再侵攻を食い止めることができず、王都への入城を許してしまい、ヴィエンチャンは陥落し、タウング王朝の支配下の下、セタティラートの弟である{{仮リンク|ウォーラ・ウォンサー1世|de|Voravongse I.}}が新しい国王に任命されたが、[[1579年]]に起こった住民の反乱蜂起から逃れるため、ウォラ・ワンソーは筏でビルマへの逃亡を図った際に筏が座礁してしまい、溺死している。タウング王朝はその後も何人かのラーオ族にラーンサーン王国の統治を任せようとしたが、いずれも短期に終わり、直轄統治へと切り替えていった。タウング王朝の統治は住民への重い課税が影響し、ラーオ族がさらに南下せざるをえないきっかけとなり、この時期にラーオ族の居住範囲が[[チャンパーサック]]へと拡大している。
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[[1791年]]にスリニャ・ウォンサーが死亡すると、インタソーム王の第二子であるアヌルッタが王位に就いた。ヴィエンチャン王国との紛争が原因でアヌルッタ王は[[1792年]]に一時シャムに逮捕されたが、4年後には復位し、[[1817年]]に死亡するまで王位に就いた。その後はマンタトウラートが即位、[[1827年]]、マンタトウラートはヴィエンチャン王国のチャオ・アヌウォンから独立の決意を秘密裏に打ち明けられるも、この情報をシャムへ流し、ヴィエンチャン王国の独立を阻んだ。[[1852年]]、チャンタラートが即位した翌年にシェントンで民衆の反乱が勃発。これを制圧したことをシャムより高く評価され、[[1779年]]にシャムに押収されたプラバーン金仏像がルアンパバーン王国へと返還されている。
 
ルアンパバーン王国の統治はおおむね平和に行われていたが、[[1872年]]より、突然複数の{{仮リンク|チン・ホー族|en|Chin Haw}}による来襲が始まった({{仮リンク|ホー戦争|en|Haw wars}})。チン・ホー族の襲撃は2年間に渡り続けられ、シップソーン・チュタイ地方(Sip Son Chu Tai)、{{仮リンク|ムアン・タン (歴史)|en|Muang Then|label=ムアン・タン}}(現在の[[ディエンビエンフー]])などルアンパバーン王国の北東部を占拠されるに至った。[[1874年]]にはいったん沈静化したが、翌年より再び[[シエンクワーン県|シェンクァン]]、[[ヴィエンチャン県|ヴィエンチャン]]などでチン・ホー族の襲撃が行われている。これらの襲撃はシャム軍による掃討作戦により一応のおさまりを見せたが、[[1885年]]に再度ヴィエンチャンが襲撃に遭い、[[1887年]]にはルアンパバーン王国が[[太平天国の乱]]の後[[ベトナム]]の傭兵として[[フランス]]と戦っていた[[黒旗軍]]に襲撃された。この襲撃により当時国王であった{{仮リンク|ウン・カム|en|Oun Kham}}とその家族は危機に晒されたが、[[フランス]]副領事館の{{仮リンク|オーガスト・パヴィ|en|Auguste Pavie}}により{{仮リンク|パークラーイ郡|vi|Parklai|label=パークラーイ}}まで救出され、さらに[[パーバンコライ]](シャム)への逃亡に成功している。
 
長きに渡ったチン・ホー族の反乱と黒旗軍の襲撃は、ルアンパバーン王国の住民に初動が遅れたシャムへの不信感を植え付け、逆に国王を救出したフランスへの信頼感を産み出す契機となった。