「ラオスの歴史」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
148行目:
NLHSは親米派首相の元での入閣を拒否、プイ内閣の単独・親米内閣が発足した。こうして、ジュネーヴ国際会議で合意された連合内閣は9ヶ月で幕を下ろした。プイ内閣発足後、アメリカは対ラオス援助を再開した。ラオスにおけるアメリカの影響力強化を懸念したNLHSは、プイ内閣への反政府行動を宣言、やがて、王国政府軍に帰属するNLHS派兵士が集団脱走していくという事態が発生、各地で衝突が勃発し始めた。
 
[[1959年]][[5月11日]]、王国政府はスパーヌウォン王子らNLHS幹部らを逮捕、ポンケーン刑務所へ収監するという強硬手段に出た。[[7月16日]]、王国政府軍とNLHS軍が衝突([[:en:North Vietnamese invasion of Laos]])、プイ内閣はNLHS側に政権ポストを空けて交渉しようとしたが、こうした態度を弱腰だとする国益擁護委員会(CDNI)により、[[10月30日]]に[[クーデター]]が発生。プイ内閣は崩壊した。[[1960年]][[4月24日]]、CDNIがNLHSを除外して実施した管理形式選挙によりCDNIは全59議席中37議席を獲得。6月、CDNIが結成した民主社会党内閣(首相は{{仮リンク|Somsanith Vongkotrattana|en|Somsanith Vongkotrattana|label=ソムサニット内閣}}殿下)が発足した。ソムサニット内閣誕生でラオス王国はさらに親米に偏り、アメリカの短期間かつ過剰な援助は急激な[[インフレ]]を齎した。
 
[[1960年]][[5月23日]]、住民らの手を借り、ポンケーン刑務所からスパーヌウォン王子らNLHS幹部が脱走。反政府活動は次第に激化していった。当時のチャンパサク国防相によれば[[1960年]]初期には南部ボロベン高原、アッタプー、パークセーなどでもっとも反乱軍がはびこっていた。