「黒田孝高」の版間の差分

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Yasumi (会話 | 投稿記録)
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[[関白]]の[[豊臣秀次]]には、[[将棋]]の相手をさせられていたという。
 
[[小早川隆景]]とは仲が良かったらしく、隆景は如水に対し「貴殿はあまりに頭が良く、物事を即断即決してしまうことから、後悔することも多いだろう。私は貴殿ほどの切れ者ではないから、十分に時間をかけたうえで判断するので、後悔することが少ない」と指摘した。[[豊臣秀吉]]の養子であった[[小早川秀秋]]は、[[豊臣秀頼]]誕生後の当初は毛利本家の養子にと計画されていたが、隆景の申し出と如水の執り成しにより、[[小早川氏|小早川家]]の養子となった。<!-- 如水は隆景の訃報に接し、「これで日本に賢人はいなくなった」と嘆じたという。もっとも、腹蔵ない友人かというとそうでもなく、隆景は死の直前に「筑紫大名(如水のこと)が休息地を求めても貸すな」と周囲に諭している。(ただし、筑紫は隆景自身の領地であり、黒田長政の領地となったのは隆景が亡くなった後の関ヶ原以降。) -->
 
[[徳川家康]]の庶子である[[結城秀康]]は、[[小牧・長久手の戦い]]の和睦の際に、人質として[[豊臣秀吉]]に差し出され、養子となっていた。その後、秀吉に実子・[[豊臣鶴松]]が誕生すると、孝高の執り成しにより北関東の名門で11万1千石を領していた[[結城晴朝]]の養子となり、後を継いだ。[[関ヶ原の戦い]]の後の伏見では、孝高の屋敷に3日に1度訪れるほど親交している。