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東京[[銀座]]の南紺屋町に、代々の医師の家に生まれる。8歳から中国・[[青島市|青島]]の小中学校を出て、[[山口高等学校 (旧制)|山口高等学校]]から1930年[[東京大学|東京帝国大学]]法学部卒業、1933年同経済学部卒業、助手となる。1936年[[満鉄調査部]]東京支社に入り、1937年[[宮崎正義]]が率いる[[日満財政研究会]]に、法学部助手だった[[戒能通孝]]らとともに参加<ref>小林英夫『超官僚』</ref>。軍による東亜支配を経済的に支える統制経済計画の策定に深く関与する。1940年東亜経済懇談会参事、[[中央大学]]経済学部講師、1941年日本出版文化協会海外課長、ついで企画課長、1943年上海で[[法幣]]の価値維持工作に従事、1944年三井本社研究室次長、敗戦後1946年日本経済再建委員会常務理事、1949年[[國學院大學]]政経学部教授。1951年都市不燃化同名常務理事、同年『朝日文芸』の懸賞小説に入選、1952年『[[サンデー毎日]]』の懸賞小説に入選、[[立正大学]]教授。1953年「オール新人杯」に入選、[[直木賞]]候補となる。1954年二度直木賞候補、1956年首都圏整備委員会専門委員となり、「灯台鬼」で直木賞を受賞<ref>「南条範夫年譜」『カラー版国民の文学』河出書房</ref>。
 
教授を務めながら、時代小説作家として活躍、1979年國學院大学を定年となった。多数の作品が映画などで映像化された。『[[駿河城御前試合]]』は、[[平田弘史]]、[[とみ新蔵]](『[[無明逆流れ]]』)、[[山口貴由]](『[[シグルイ]]』)によって漫画化された。陰惨な展開・結末の小説を多く残し、それらは「残酷小説」とも称される。90歳を超えても最晩年まで執筆を続け、2004年[[肺炎]]のため死去。享年95。
 
== 略歴 ==