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誕生の翌年に[[比企能員の変]]が起こり、父頼家は[[北条氏]]によって将軍の座から逐われ間もなく暗殺された。[[建保]]4年([[1216年]])3月5日、祖母である[[北条政子]]の命により、14歳で叔父[[源実朝]]の正室・[[坊門信子|信子]]と謁見し、その[[猶子]]となる。他の頼家の子が、幕府の政争の中で次々に非業の死を遂げていく中で、政子の庇護のもとにあり女子であった竹御所はそれに巻き込まれることを免れ、政子死去後、その実質的な後継者となる。幕府関係者の中で唯一頼朝の血筋を引く生き残りである竹御所は幕府の権威の象徴として、御家人の尊敬を集め、彼らをまとめる役目を果たした。
 
[[寛喜]]2年([[1230年]])、28歳で13歳の第4代[[征夷大将軍|将軍]][[藤原頼経]]に嫁ぐ。夫婦仲は円満であったと伝えられる。その4年後に妊り、頼朝の血を引く将軍後継者誕生の期待を周囲に抱かせたが、難産の末に男子を[[死産]]、本人も33歳で死去した。竹御所彼女の死により[[源頼朝]]の血筋は完全に断絶した。
 
[[藤原定家]]の[[日記]]である『[[明月記]]』によると、竹御所死去の報がもたらされると、鎌倉武士たちは源氏将軍の血筋が断絶したことに鎌倉武士たちは激しく動揺、京都にあった幕府御家人はこぞって鎌倉に下ったという。定家は頼朝子孫が断絶した事に対し[[平氏|平家]]の遺児らをことごとく葬った事に対する報いであろう」と述べている。『[[吾妻鏡]]』[[嘉禎]]元年七月二十七日条に「竹御所の姫君」が竹御所の喪に服したことを記しており、竹御所の養女と見られる。
 
竹御所の墓は[[比企氏|比企]]一族の[[菩提寺]]である[[妙本寺]]にある。