「キョプリュリュ家」の版間の差分

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== 来歴 ==
門閥としてのキョプリュリュ家は、[[メフメト4世]]の治世において[[{{仮リンク|キョプリュリュ・メフメト・パシャ]]|en|Köprülü Mehmed Pasha}}が大宰相に就いたことに始まる。キョプリュリュ・メフメトは、[[アナトリア]]の[[{{仮リンク|ヴェジールキョプリュ]]|en|Vezirköprü|label=キョプリュ}}の有力者と姻戚関係を結び、そこを基盤として中央政界の官職を歴任、家臣団を形成した。キョプリュリュ・メフメトが死ぬと、息子の[[キョプリュリュ・アフメト・パシャ]]が後を継いだ。この両者の時代に、オスマン帝国の版図は史上最大となった。
 
その功績によりキョプリュリュ家の世襲は続き、キョプリュリュ・メフメトの娘婿としてキョプリュリュ家に入った[[カラ・ムスタファ・パシャ]]がキョプリュリュ・アフメトの後任となったが、カラ・ムスタファは[[第二次ウィーン包囲]]で大敗、さらにその責を問われて刑死した。
 
カラ・ムスタファの死により、キョプリュリュ家からの大宰相は一時途絶えたが、何人かののち、[[キョプリュリュ・ムスタファ・パシャ]]が再度キョプリュリュ家から登用された。[[カルロヴィッツ条約]]の調印に当たったのもキョプリュリュ家出身の[[{{仮リンク|キョプリュリュ・ヒュセイン・パシャ]]|en|Amcazade Köprülü Hüseyin Pasha}}であった。
 
== 人物 ==
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! 皇帝
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| [[{{仮リンク|キョプリュリュ・メフメト・パシャ]]|en|Köprülü Mehmed Pasha}} || [[1583年]]–[[1661年]]
| [[1656年]]–1661年 || [[メフメト4世]]
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27行目:
| [[1689年]]–1691年 || [[スレイマン2世]]<br />[[アフメト2世]]
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| [[{{仮リンク|キョプリュリュ・ヒュセイン・パシャ]]|en|Amcazade Köprülü Hüseyin Pasha}} || [[1644年]]-[[1702年]]
| [[1697年]]–1702年 || [[ムスタファ2世]]
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| [[{{仮リンク|キョプリュリュ・ヌーマン・パシャ]]|en|Köprülü Numan Pasha}} || [[1719年]]没
| [[1710年]]–1711年 || [[アフメト3世]]
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| [[{{仮リンク|キョプリュリュ・アブドゥッラー・パシャ]]|en|Köprülü Abdullah Pasha}} || [[1735年]]没
| [[1723年]]–1735年 || アフメト3世<br />[[マフムト1世]]
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現在もキョプリュリュ家は存続している。子孫は[[トルコ]]国内か[[アメリカ合衆国]]に居住しているという。
 
[[{{仮リンク|メフメト・フアト・キョプリュリュ]]|en|Mehmet Fuat Köprülü}}は1950年から1955年までトルコの[[外務大臣]]を務めた。
 
== その他 ==