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ちちぶ (会話 | 投稿記録)
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{{基礎情報 武士
| 氏名 = 大庭景義
| 画像 = Ooba Kageyoshi.jpg
| 画像サイズ = 259px
| 画像説明 =
| 画像説明 = 大庭景義/[[江戸時代]]『[[前賢故実]]』より。画:[[菊池容斎]]
| 時代 = [[平安時代]]末期 - [[鎌倉時代]]初期
| 生誕 = [[大治 (日本)|大治]]3年([[1128年]])?
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[[平氏|平姓]][[大庭氏]]。大庭氏は[[鎌倉景継]]が[[大庭御厨]]を領し、[[大庭景継]]を称したことから始まり、景義の父である景宗は、その甥と云われる。景義は[[鎌倉景経]]の孫で[[鎌倉景忠|大庭景忠]]の長子(『[[尊卑分脈]]』)。あるいは[[鎌倉景宗|大庭景宗]]の長男(『[[系図纂要]]』『[[桓武平氏諸流系図 (三浦和田文書)|桓武平氏諸流系図]]』等)とするなど諸説ある。
 
[[相模国]][[大庭御厨]]([[神奈川県]][[藤沢市]])の中の懐島郷(現・[[神奈川県]][[茅ヶ崎市]])を本拠とし、'''懐島太郎'''を名乗りとした。
 
== 概要 ==
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[[治承]]4年([[1180年]])に[[源頼朝]]が挙兵すると、弟の景親と袂を分かち頼朝の麾下に参加。後に景親が頼朝に敗れ囚われの身となると、頼朝から「助命嘆願をするか」と打診されるが、これを断り全てを頼朝の裁断に任せたという。
 
その後も草創期の[[鎌倉幕府]]において、長老格として重きをなした。奥州[[藤原泰衡]]を征伐する際、頼朝は[[後白河天皇|後白河法皇]]の院宣を得られず苦慮していた。しかし景義が、[[奥州藤原氏]]は[[源氏]]の[[家人]]であるので誅罰に勅許は不要なこと、戦陣では現地の将軍の命令が朝廷の意向より優先されることを主張。その意見が採用された。
 
後に景義は出家している。[[嫡男]]の[[大庭景兼]]が跡を継いだ。