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[[File:RIAN_archive_35174_American_Spy_Pilot_Francis_Gary_Powers.jpg|thumb|200px|right|フランシス・ゲーリー・パワーズ]]
'''フランシス・ゲーリー・パワーズ'''('''Francis Gary Powers''',  [[1929年]][[8月17日]] - [[1977年]][[8月1日)]])は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[軍人]]で、最終階級は[[大尉]]。1960年5月1日の[[U-2撃墜事件]]の際、彼はこの[[U-2 (航空機)|U-2]]を操縦していた。彼は[[ソビエト連邦|ソ連]]に拘留されていたが、後にアメリカで拘留されていた[[ソ連国家保安委員会|KGB]][[大佐]][[ルドルフ・アベル]]と交換され、釈放された。後に彼はこのときの体験を''Operation Overflight''という本に綴った
 
[[1960年]][[5月1日]]の[[U-2撃墜事件]]の際、この[[U-2 (航空機)|U-2]]を操縦していた[[操縦士|パイロット]]である。
 
== 経歴 ==
=== 生い立ち ===
パワーズは1929年、[[ケンタッキー州]]ジェンキンスに生まれ、[[バージニア州]]ポンドで育った。[[テネシー州]]のミリガン大学を卒業後、[[1950年]]に[[アメリカ合衆国空軍|合衆国空軍]]に入隊、[[ジョージア州]]ターナー空軍基地第468戦略戦闘飛行大隊に所属し[[F-84]]の[[パイロット]]となった。後に[[朝鮮戦争]]に従軍し、数々の戦果を挙げた。彼の息子によると、このときの成績が評価され[[アメリカ中央情報局|CIA]]に引き抜かれた。[[1956年]]に大尉の階級で空軍を除隊しCIAのU-2による偵察活動に加わった。
 
=== U-2偵察活動と撃墜事件 ===
U-2を使用した偵察活動の内容はソ連などの敵国上空から軍事施設やその他の重要施設の写真を撮影することであった。1960年5月1日、パワーズの操縦するU-2はソ連[[スヴェルドロフスク]]上空で[[ソ連防空軍]]SAM(SAM([[地対空ミサイル]])によって撃墜された。[[パラシュート]]降下した[[コスリノ村]]彼を救出した地元住民は当初[[赤軍]]兵士と勘違いしたが、彼の所持品からスパイと見破られた。
 
パワーズはソ連に対する[[諜報]]行為のため有罪を宣告され、[[禁固]]10年を言い渡されシベリアに送られた。しかし元OSSのドノバン弁護士とソ連側のシスキン[[ソ連国家保安委員会|KGB]]西欧本部書記官間の交渉により、[[1962年]][[2月10日]]、[[ドイツ]][[ポツダム]]のグリニーケ橋にて、パワーズは同じくスパイ容疑で拘留されていたアメリカの学生[http://フレデリック・プライヤー フレデリック・プライヤー](フリードリッヒ通りで解放)とともに、アメリカで逮捕されたKGB大佐[[ルドルフ・アベル]]と交換され、無事アメリカに帰国することができた。
 
=== アメリカ帰国後 ===
パワーズがアメリカに帰国したとき、アメリカ国内では彼は撃墜後、ソ連側に逮捕される前にU-2機密情報や偵察写真、部品を[[自爆]]装置を用いて処分することを怠ったという非難が起きた。また、一部からはCIAの作った自殺用毒薬を使用しなかったという批判もなされた。帰国後に撃墜から拘留中の出来事についてCIA、[[ロッキード]]社(U(U-2の製造者)合衆国空軍からパワーズは事情聴取を受けたあと、[[1962年]][[3月6日]]、[[アメリカ合衆国上院軍事委員会|上院軍事委員会]]に出頭した。上院軍事委員会はパワーズは重要な機密は一切ソ連側に洩らしていないと判断した。
 
その後、パワーズは[[1963年]]から[[1970年]]までロッキード社にテスト・パイロットとして勤務し、1970年、U-2撃墜事件における自身の体験を綴った''Operation Overflight''をカート・ジェントリーとの共著で出版した。この本の中でパワーズは、かつてソ連に一時[[亡命]]した[[リー・ハーヴェイ・オズワルド]]がソ連側に渡した[[レーダー]]情報がU-2撃墜事件につながったと指摘している。
 
[[1977年]][[8月1日]]、KNBCテレビのレポーターとしてヘリコプターに搭乗中、[[ロサンジェルス]]上空で墜落死した。この事故の原因は燃料計の故障であった。彼の遺体は[[アーリントン国立墓地]]に埋葬されている。
 
[[1998年]]、U-2偵察活動についての情報が極秘解除され、この偵察活動は合衆国空軍とCIAの共同作戦だったことが判明した。[[2000年]]U-2撃墜事件から40年を記念してパワーズの家族は彼の死後受章として捕虜章(Prisoner of War Medal)、殊勲飛行十字章(Distinguished Flying Cross)、国防従軍章(National Defense Service Medal)を受章した。
 
今もなお、米国内では、パワーズは逮捕時自殺すべきであったとの世論も根強くある。
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* [http://www.oldgazette.ru/lib/pauers/index.html Transcripts of the Soviet court trial] (in [[ロシア語|Russian]])
 
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[[Category:アメリカ合衆国空軍の軍人]]
[[Category:アメリカ合衆国のスパイ]]
[[Category:アメリカ合衆国のパイロット]]
[[Category:アメリカ合衆国のスパイ]]
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[[Category:1929年生]]
[[Category:1977年没]]