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|教育 =
|出身校 = [[宮城県小牛田農林高等学校]]
|職業 = [[剣道|剣道家]]、元[[日本の警察官|警察官]]
|活動期間 =
|雇用者 = [[警視庁]]
|団体 =
|著名な実績 =
|業績 = [[全日本剣道選手権大会]]優勝3回・準優勝2回(出場10回)<br />[[世界剣道選手権大会]]団体優勝2回<br />[[全国警察大会|全国警察剣道大会]]団体優勝4回<br /> [[国民体育大会剣道競技]]団体優勝2回<br />[[明治村剣道大会]]優勝1回・準優勝1回<br />等
|流派 = [[警視流]]
|影響を受けたもの =
|影響を与えたもの =
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|体重 =
|テレビ番組 =
|肩書き = 剣道[[範士]]八[[段級位制|段]]<br />警視庁[[名誉師範#都道府県警察名誉師範|名誉師範]]<br />[[一橋大学]]剣道部[[師範]]
|任期 =
|前任者 =
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|補足 =
}}
'''千葉 仁'''(ちば まさし、[[1944年]]([[昭和]]19年)[[4月20日]] - )は、[[日本]]の[[剣道|]]家。剣道家]]([[範士]]八[[段級位制|段]])、元剣道[[日本代表]]。元[[警視庁]][[日本の警察官|警察官]]。現在は警視庁[[名誉師範#都道府県警察名誉師範|名誉師範]]、[[一橋大学]]剣道部[[師範]]を務める
 
[[五行の構え#上段の構え|上段]]の名手で、[[全日本剣道選手権大会]]で3優勝した。これは[[宮崎正裕]]に次ぐ記録は史上2位タイである。得意技は上段から振り下ろす片手小手。
 
== 歴 ==
[[宮城県小牛田農林高等学校]]剣道部で[[乳井義博]]、[[高橋要]]に師事。2年生のときに[[国士舘大学上段の構え]][[教授]][[大野操一郎]]から[[スカウト (勧誘)|スカウト]]されを始めたのは乳井も賛成高校3年生の6月頃である。小牛田農林では生徒に上段を許して国士舘大学への進学が決まりいなたが、3年がいないときに上段[[全国真似事をしていたところを等学校総合体育大会剣道競技大会|インターハイ]]終了後見つかり、乳井が上段の跡継ぎをほしがっていたことや大学は金千葉かかるし親も大変だ[[左利き]]であったことから警視庁、上段を許され指南を受けろと言い、急遽警視庁に就職する
 
[[国士舘大学]][[教授]][[大野操一郎]]から[[スカウト (勧誘)|スカウト]]され、乳井も賛成して国士舘大学への進学が決まりかけたが、3年生の[[全国高等学校総合体育大会剣道競技大会|インターハイ]]終了後に乳井が、「大学は金がかかるし親も大変だから[[警視庁]]を受けろ」と言い、急遽警視庁に就職した。
[[上段の構え]]を始めたのは、高校3年生の6月頃である。小牛田農林高校では生徒に上段を許していなかったが、先生がいないときに上段の真似事をしていたところを高橋に見つかり、乳井が上段の跡継ぎをほしがっていたことや、千葉が[[左利き]]であったことから、上段を許され指南を受けた。
 
警視庁に入庁後、[[術科特別訓練員|剣道特別訓練員]]となり[[機動隊]]の[[機動隊#武道小隊|武道小隊]]にす。し、[[講談社術科特別訓練員|剣道特別訓練員]]として修行。[[野間全日本剣選手権大会]]で3回優勝([[1966年]]にも通い特に[[羽賀準一1969年]]から猛特訓を受け、[[1972年]])した。また、わずかでこの記録あるが[[持田盛二1996年]]に[[宮崎正裕]]が4回目の優勝を遂げるまで破られなかったこともある
 
[[講談社]][[野間道場]]にも通い、[[羽賀準一]]から猛特訓を受けた。また、[[持田盛二]]にかかったこともある。
 
警視庁に伝わる[[警視流|警視流木太刀形]]の修錬にも務めた。
 
現在は警視庁[[名誉師範]]、[[一橋大学]]剣道部[[師範]]を務める。
 
== 年譜 ==
* [[1944年]](昭和19年)[[4月20日]] - [[宮城県]][[登米郡]][[中田町 (宮城県)|中田町]](現[[登米市]])で誕生する
* [[1963年]](昭和38年)3月 - [[宮城県小牛田農林高等学校]]を卒業。
* [[1963年]](昭和38年)4月 - [[警視庁]]に奉職。
* [[1966年]](昭和41年) - 第14回[[全日本剣道選手権大会]]で初優勝。
* [[1969年]](昭和44年) - 第17回全日本剣道選手権大会で2回目の優勝を遂げ、当時の優勝最多記録([[中村太郎 (剣道家)|中村太郎]]・[[戸田忠夫]])に並ぶ。
* [[1972年]](昭和47年) - 第20回全日本剣道選手権大会で、前人未到の3回目の優勝を遂げる。この記録は、[[1996年]]の第44回大会で[[宮崎正裕]]が4回目の優勝を遂げるまで破られなかった。[[決勝戦]]の相手は2連覇のかかった、同じ上段を得意とする[[川添哲夫]]であった。
* [[2000年]](平成12年) - [[中倉清]]の後任として[[一橋大学]]剣道部[[師範]]を務め、現在に至る。
* [[2004年]](平成16年) - 警視庁を定年退職。現在に至る。
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* 優勝2回([[東京都]]代表)
 
; [[全国警察大会|全国警察剣道大会]](団体戦)
* 優勝4回
 
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== 参考文献 ==
*『月刊[[剣道日本]]』[[2003年]]8月号、[[スキージャーナル株式会社 (企業)|スキージャーナル]]
*『月刊剣道日本』[[2007年]]7月号、スキージャーナル
 
== 関連項目 ==
*[[警視流]]
 
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