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'''傅 幹'''(ふ かん、[[175年]] - ?)は、[[中国]]の[[後漢]]時代末期の政治家。字は'''彦材'''、または'''彦林'''、小字(幼名)は'''別成'''。[[涼州]]北地郡霊州県の人。父は[[傅燮]]。子は[[傅玄]]。
 
== 事跡 ==
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| 父: 傅燮 子:傅玄
|}
幼年期は父の傅燮が漢陽[[太守]]であったため、西涼にいたものの、[[中平]]4年([[187年]])、当時の涼州[[刺史]]の[[耿鄙]]の悪政に反乱した異民族により漢陽城が包囲される。当時13歳だった傅幹は傅燮に降伏を勧めたものの、傅燮はその進言を拒否し部下に傅幹の後事を託し戦死する。
 
傅幹はその後、元耿鄙の部下であった[[馬騰]]に仕えた。[[建安 (漢)|建安]]7年([[202年]])、馬騰が[[冀州]]の[[袁尚]]や[[并州]]の[[高幹]]と手を結んで[[曹操]]に対抗しようとすると、傅幹はこれを諌めて曹操への敵対を思い止まらせた。これにより馬騰は、息子の[[馬超]]や[[ホウ徳|龐徳]]を曹操の援軍に派遣し、高幹・[[郭援]]の軍を撃破した。
 
その後、傅幹は[[曹操]]配下に転じている。建安17年([[212年]])、[[劉備]]が[[益州]]牧[[劉璋]]を攻撃すると、曹操配下の丞相掾である趙戩は「劉備に蜀平定は無理だ」と主張したが、徴士となっていた傅幹は「劉備の器量に加え、[[諸葛亮]][[関羽]][[張飛]]の3人の補佐があるため、蜀平定に成功する」と反論した。そして事実、傅幹の言うとおりとなった。
 
建安19年([[214年]])秋7月、曹操が[[孫権]]を討伐しようとすると、参軍となっていた傅幹は、徳をもって懐柔するのが良いとして征伐を諌めたが聞かれなかった。結局この孫権征伐は、捗捗しい戦果を残せずに終わっている。
 
『三国志』魏書武帝紀によれば、傅幹の官位は丞相倉曹属で終わったとあるが、『[[後漢書]]』傅燮伝によれば、扶風太守まで至ったとある。