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==経歴==
=== 前歴 ===
『[[魏略]]』によれば、元の[[諱]]は'''厳'''であったという。
 
[[五経|経書]]に通じており、郎中となり、葘丘の[[県令|県長]]となった。[[太尉]]の[[楊賜]]を師と仰いでおり、楊賜が死去すると官を棄てて故郷に戻り喪に服した。[[孝廉]]に推挙され、[[三公]]の府へ招聘されたが、出仕しなかった。
 
その後、[[徐州]][[刺史]]の[[陶謙]]に[[茂才]]に推挙された。やがて治中に取り立てられ、別駕の[[趙昱]]と共に陶謙を補佐した。当時、[[献帝 (漢)|献帝]]は[[長安]]におり、関東は兵乱で混乱していた。王朗は趙昱と共に、朝廷に使者を派遣して勤皇の姿勢を示すべきだと勧めた。

=== 会稽太守として ===

献帝はその忠誠を嘉して、[[初平]]4年([[193年]])、王朗は彼を[[揚州市|揚州]]の[[会稽郡]][[太守]]に任命された。
 
王朗の『家伝』によると、当時の会稽には[[秦]]の[[始皇帝]]を古来より祭る風習があったが、始皇帝は徳のない君主だからという理由でこれを廃止させている。会稽太守として着任した4年間で、民をいつくしんだという<ref>『[[資治通鑑]]』によれば、193年に王朗は会稽太守に就任し、196年に孫策に敗れ、孫策が会稽太守を自称している。</ref>。またこの時期、友人の[[許靖]]が庇護を求めて王朗の下を訪れ、身を寄せている<ref>『三国志』「許靖伝」</ref>。
 
しかし、[[建安]]元年([[196年]])、揚州牧の[[劉ヨウ (揚州牧)|劉繇]]の勢力を破った[[孫策]]が、会稽に進出した。郡の功曹の[[虞翻]]は逃亡を進言したが、皇帝から任された城を守るべきだと考えてその意見を退けた。王朗は兵を用いて抵抗しようとし、元の丹陽太守の[[周キン|周昕]]の協力も得て固陵において孫策の進撃を防いでいたが、[[孫静]]の進言により査瀆におびきだされ、周昕斬られるなど孫策に大敗した<ref>『資治通鑑』漢記54</ref>。
 
王朗結局、彼は城をてて船で東冶に逃れたが<ref>『献帝春秋』によると、[[交州]]への避難を目指していたという。</ref>、孫策は追撃をかけ再び王朗を大敗させた。王朗、結果彼は孫策の元出頭投降し、降伏が遅れたことを素直に謝罪した。孫策も王朗が儒学の教養が豊かで謙虚な人物であったため処刑せずに許した<ref>『漢晋春秋』によると、孫策は王朗を憎んで張昭に動向を監視させ、王朗も屈服しなかったため、孫策は内心含むところがあったが、そのまま曲阿に引きとめていたという。</ref>。王朗はその後は一族を抱え困窮したが、道義に基づく行為は目立っていた。
 
=== 曹操に出仕 ===
 
建安3年([[198年]])、王朗は[[曹操]]に召し出されて曲阿から出発し、[[長江]]や海を行ったり来たりしながら数年かけて都にたどり着いた。[[孔融]]は王朗がなかなか到着しないのを心配し、手紙を送って労を慰めた。都に到着後、曹操により諫議大夫・参[[司空]]軍事に任命された。『漢晋春秋』によると、孫策の人物を尋ねられた王朗は「孫策は大きな野心と優れた人材を有しているため、ただの賊では終わらないでしょう」と語った。
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『魏略』によると、かつて会稽で米の飯を節約したことを曹操にからかわれたため、王朗は、かつての王朗のように節約すべきでないときに節約したことと、今の曹操のように節約すべきときに節約しないことは全く異なると反論した。また、[[孫権]]が曹操に臣従し、貢ぎ物を送ってきたことについて意見を求められると「呉が陥落した後、巴・[[蜀]]を席巻すれば状勢は決まります。慶事は続くでしょう」と述べた。
 
=== 魏の臣下として ===
 
[[延康]]元年([[220年]])2月、曹操が亡くなり[[曹丕]]が魏王の位を継ぐと、王朗は[[御史大夫]]に昇進し、安陵亭侯に封じられた。民への恩愛と寛容を第一にする統治を心がけるよう上奏した。献帝が曹丕に帝位を[[禅譲]]しようとすると、曹丕にそれを受けるよう勧めた。曹丕(文帝)が皇帝に即位した後の[[黄初]]元年(同220年)11月、御史大夫の官は司空に改称され、また楽平亭侯に昇進した<ref>『三国志』「文帝紀」</ref>。
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黄初4年([[223年]])、高官達に対し、優れた人物を推挙するよう詔勅が下されると、王朗は[[光禄大夫]]の[[楊彪]]を推挙し、自身は病気だとして楊彪に地位を譲ろうとした。文帝は楊彪に三公に次ぐ地位を与えると共に、王朗に職務に復帰するよう述べた。王朗は命令に服し、職務に戻った。
 
=== 曹叡の下で ===
 
黄初7年([[226年]])5月、文帝が亡くなり[[曹叡]](明帝)が即位すると、王朗は蘭陵侯に昇進し、500戸の加増を受け、所領は1200戸となった。明帝に対しても、労役や出費の軽減を具申した。同年12月、[[司徒]]に転任となった。明帝が後継に恵まれないことを憂慮する上奏をしたところ、明帝に感謝されている。