「安政江戸地震」の版間の差分

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震度分布
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[[File:1855 Ansei Edo earthquake intensity.png|thumb|right|240px|安政江戸地震の震度分布<ref name="soran">宇佐美龍夫 『最新版 日本被害地震総覧』 東京大学出版会、2003年</ref>]]
'''安政江戸地震'''(あんせいえどじしん)は、[[安政]]2年[[10月2日 (旧暦)|10月2日]]([[1855年]][[11月11日]])午後10時ごろ、[[関東地方]]南部で発生した[[マグニチュード|M]]6.9の[[地震]]である。[[南関東直下地震]]に含まれる。
 
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近代的な観測のなされる前(明治17年以前)に発生した地震であるため、その震源やメカニズムについては諸説があり、各地の地震被害資料や[[宏観異常現象|前兆現象]]の記録などから、[[北アメリカプレート]]内部の[[地震#内陸地殻内地震|内陸地殻内地震]](大陸プレート内地震)、北米プレートに沈み込む[[フィリピン海プレート]]内部の地震([[地震#海洋プレート内地震|海洋プレート内地震]])、北米プレートに沈み込む[[太平洋プレート]]上面の[[関東フラグメント]]による[[地震#プレート間地震|プレート境界地震]]などが推定されている。震源は[[東京湾]]北部・[[荒川 (関東)|荒川]]河口付近と考えられている。
 
特に強い揺れを示したのは[[隅田川]]東側([[江東区]])であった。隅田川と江戸川に挟まれた沖積地が揺れを増幅したものと考えられる<ref>{{PDFlink|[http://www.bousai.go.jp/jishin/chubou/kyoukun/rep/1855-ansei-edoJISHIN/1855-ansei-edoJISHIN_04_chap1.pdf http://www.bousai.go.jp/jishin/chubou/kyoukun/rep/1855-ansei-edoJISHIN/1855-ansei-edoJISHIN_04_chap1.pdf 安政江戸地震]}}</ref>。震度6以上の揺れと推定されるのは江戸付近に限られる一方で、震度4以上の領域は[[東北地方]]南部から[[東海地方]]まで及んだ<ref name="eri.u-tokyo-1855">[http://www.eri.u-tokyo.ac.jp/furumura/anseiedo.htm 関東平野直下の地震と1855年安政江戸地震]東京大学 地震研究所</ref>。
 
== 被害の状況 ==
被災したのは[[江戸]]を中心とする[[関東平野]]南部の狭い地域に限られたが、大都市[[江戸]]の被害は甚大であった。被害は[[軟弱地盤]]である[[沖積層]]の厚みに明確に比例するもので、[[武蔵野台地]]上の[[山手]]地区や、埋没した洪積台地が地表面のすぐ下に伏在する[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]地区の大半や[[銀座 (歴史)|銀座]]などでは、大名屋敷が半壊にとどまることなどから震度5強程度とみられ、被害は少なかったが、[[下町]]地区、とりわけ[[埋立て]]の歴史の浅い[[隅田川]]東岸の[[深川]]などでは、震度6弱以上と推定され、甚大な被害を生じた。また、[[日比谷]]から[[皇居外苑|西の丸下]]、[[大手町]]、[[神田神保町]]といった[[谷地]]を埋め立てた地域でも、大名屋敷が全壊した記録が残っているなど、被害が大きく、震度6弱以上と推定されている<ref>[http://www.nikkei.com/news/headline/article/g=96958A9C93819695E3E3E2E2858DE3E3E2E0E0E2E3E09180EAE2E2E2 日本経済新聞2012年2月11日付]</ref>。死者約4,300人、倒壊家屋約1万戸とされている。
 
地震後約30分後に30余箇所から出火、半日後には鎮火したが2.2km<sup>2</sup>を焼失。[[旗本]]・御家人らの屋敷は約80%が焼失、全潰、半潰または破損の被害を受けた。[[亀有]]では田畑に小山や沼が出来、その損害は約3万[[石 (単位)|石]]に上った<ref name="jiten">[[宇津徳治]]、嶋悦三、吉井敏尅、山科健一郎 『地震の事典』 朝倉書店、2001年</ref>。