「神田カルチェ・ラタン闘争」の版間の差分

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'''神田カルチェ・ラタン闘争'''(かんだカルチェ・ラタンとうそう)は、[[1968年]]から[[1969年6月21日]]にかけて[[社学同]](=[[ブント]]=[[社会主義学生同盟]]。[[共産主義者同盟]]の学生組織)が東京[[神田駿河台]]の学生街で起こした[[解放区]]闘争。駿河台の通り2か所にバリケードを築いたが、たちまち[[機]]事件に突破された
 
== 概要 ==
この年8月に[[オーストラリア]]で、[[アスパック]]([[ASPAC]]=[[アジア太平洋閣僚会議]])の開催が計画されており、日本からも[[外務大臣]]が出席の予定であった。社学同は、この会議が[[日本帝国主義]]のアジア再侵略への一歩であり、[[70年安保]]の実質化であると位置づけていた。そこでこの日、アスパック開催抗議の実力闘争を組もうとして、この「神田カルチェ・ラタン闘争」を呼びかけた。各地から集まった社学同700名は、[[中央大学]]中庭で集会を開いた後、“神田を日本の[[カルチェ・ラタン]]にせよ”という[[スローガン]]で闘争を展開し、駿河台の通り2か所に、中央大学や[[明治大学]]から持ち出した机などを使って[[バリケード]]を築いた。しかし機動隊がバリケード解除に来ると、あまり衝突することもなく学生側が退避した。結局、周辺の学生がたくさん集まり、社学同は明大大学院前で約3000人の学生を集めて集会を行ってから解散した」<ref>『[[教育大学新聞]]』1968年6月25日号</ref>。
[[東大紛争]]支援を名分に、当時神田・駿河台近辺に校舎を構えていた[[明治大学]]・[[中央大学]]・[[日本大学]]の[[全学共闘会議|全共闘]]が明大通り一帯をバリケード封鎖。パリの学生運動の拠点であった[[カルチェ・ラタン]]に擬えて、「神田解放区」を現出させた。現在でも当時を回顧する記録フィルムでは、[[安田講堂事件]]、[[日本大学]]経済学部バリケード封鎖とともに取り上げられることが多い。
 
== 背景 ==
1968年には、世界的に[[ベトナム反戦運動]]が盛り上がった。「沈黙することは戦争に手を貸すこと」という雰囲気さえ醸成されていた。[[ソルボンヌ大学]]([[パリ大学]]の文学・語学部門)では、[[学制改革]]を要求する学生の激しい闘争で、カルチェ・ラタンやサンミッシェルで解放区を実現しただけではなく、労働者の[[ストライキ]]と工場占拠に波及し、[[フランス]]の5月危機と呼ばれる状況を引き出していた。[[イタリア]]の諸大学でも、ベトナム反戦運動から波及した学生による大学占拠が起きたり、ベトナム反戦運動は[[ヨーロッパ]]各国に広がっていた」<ref>『教育大学新聞』1968年5月25日号</ref>。
 
社学同は、中央大学(もちろん移転前であり、理工学部以外は駿河台にあった)と明治大学に多くの同盟員・[[シンパ]](sympathizer)がいたことから、パリの学生運動の拠点であったカルチェ・ラタンになぞらえて、駿河台で解放区闘争を組もうとしたものであった。
 
== 誤用 ==
1968年から[[1969年]]にかけて、全国の大学に学生運動が広がり、[[全学共闘会議|全共闘]]が結成される大学も多かった。街頭デモでは、そうした学生と機動隊が激しく衝突することが多かった。こうした衝突で神田地区におけるものを「神田カルチェ・ラタン」と呼ぶことがある。しかし、これは誤りである。この時代に学生運動に参加していた人でも、この誤用をしていることがある。
 
次はその例である。「(1969年1月18日)明大、中大などの学友とともに神田・お茶の水カルチェラタン解放区闘争を闘い、[[順天堂病院]]から、[[東京大学|東大]]構内への進攻をはかる」<ref>『回想の全共闘運動-今語る学生叛乱の時代』彩流社、2011年10月、241ページ</ref>。
 
== 関連項目 ==
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* [[カルチエ・ラタン]]
 
== 脚注 ==
{{reflist}}
 
{{Communism-stub}}