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'''堀辺 正史'''(ほりべ せいし、[[1941年]][[10月14日]] - )は、[[日本]]の日本武道傳骨法創始師範。中華民国国術会顧問。[[茨城県]][[水戸市]]出身。[[奈良時代]]より日本に伝わる独自の[[拳法]]という[[骨法 (格闘技)|骨法]](こっぽう)の正統継承者を称する。武名は'''堀辺正史源一夢'''(ほりべせいしみなもとのいちむ)。
== 経歴・人物 ==
本人が語るところ著書『喧嘩芸骨法』によると、[[東條英機]][[ボディガード]]を務めた(これについては東條家の遺族の証言で否定されている)父からその技を相伝され、骨法司家の第52代を襲名し、伝統的骨法の修行と同時にの傍らケンカ・他流試合に明け暮れた日々の中から、実戦的な格闘技術を習得、古の骨法変を加え革しという。また、大東流合気柔術の佐川幸義の道場に入門し、大東流も学んだ
堀辺 正史(ほりべ せいし、1941年10月14日 - )は、茨城県水戸市出身の日本武道傳骨法創始師範。中華民国国術会顧問。奈良時代より日本に伝わる独自の拳法という骨法(こっぽう)の正統継承者を称する。武名は堀辺正史源一夢。
 
{{要出典範囲|date=2011年9月|東京の東中野に道場を開き、元々は一子相伝の武術であったとする骨法を喧嘩芸骨法として世に公開する。[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]「[[スーパージョッキー]]」ではたけし軍団を相手にして整体術を公開。[[アントニオ猪木]][[高野攘治|ザ・コブラ]]、[[藤波辰爾|藤波辰巳]][[獣神サンダー・ライガー]][[船木誠勝]]など[[プロレスラー]]にその技を伝えたことで、一部の格闘技・主に[[プロレス]]を中心とする[[格闘技]]ファンから注目される。当時[[週刊プロレス]]編集長だった[[ターザン山本]]も彼に注目し、共著も著している。また、[[1990年代]]に入り、ある[[対戦型格闘ゲーム]]『[[餓狼伝説]]』[[アンディ・ボガード|キャラクター]]に骨法の使い手が登場、若者にもその名が知られるようになる。
本人が語るところによると、東條英機のボディガードを務めた(これについては東條家の遺族の証言で否定されている)父からその技を相伝され、骨法司家の第52代を襲名し、伝統的骨法の修行と同時にケンカ・他流試合に明け暮れた日々の中から、実戦的な格闘技術を習得、古伝の骨法に改変を加えたという。また、大東流合気柔術の佐川幸義の道場に入門し、大東流も学んだ。
 
[[1994年]][[総合格闘技|バーリトゥード]]時代の幕開けに合わせて、喧嘩芸路線を捨て、より格闘競技性を重視した格闘技路線に変更、「し『日本武道傳骨法」を名乗る。最近では整体術も教えている』へと改称
東京の東中野に道場を開き、一子相伝の武術であったとする骨法を「喧嘩芸骨法」として公開。アントニオ猪木、藤波辰巳、獣神サンダー・ライガー、船木誠勝などプロレスラーにその技を伝えた事で、一部の格闘技・プロレスファンから注目される。当時週刊プロレス編集長だったターザン山本も彼に注目し、共著もある。また、1990年代に入り、ある対戦型格闘ゲームのキャラクターに骨法の使い手が登場、若者にもその名が知られるようになる。
 
骨法[[整体]]も教えており、また漫画家の[[小林よしのり]]と親交がある。}}
1994年のバーリトゥード時代の幕開けに合わせて、より格闘性を重視した路線に変更、「日本武道傳骨法」を名乗る。最近では整体術も教えている。
=== 過去の大東流との関わり ===
弟子としてのどの程度の所属状態だったのかは不明だが、過去の一時期に[[吉丸慶雪]](吉丸貞雄)の紹介で[[大東流佐川道場]]に在籍していたことがあり、吉丸と共同で『換骨拳』の道場を立ち上げた際に、「大東流」の名称の使用を巡って[[佐川幸義]]と揉めることとなり、結果的に吉丸もろとも佐川道場を離れることとなった。
 
吉丸慶雪『[http://homepage2.nifty.com/aiki-rentai/newpage3.html 木村達雄様詰問状]』より<br>
 
「堀辺先生には私が紹介して佐川先生の三元直伝まで受けてもらいました。(佐川幸義先生免許 正伝大東流合気武術 中伝三段)……」<br>
 
上記文書は、吉丸の佐川道場離門後、佐川派の主たる後継者となった木村達雄が著作『透明な力』においての吉丸に対する批判的な言動に対して、吉丸が弁明のために記してネット上に公開したものである。
堀辺の経歴詐称・骨法捏造疑惑
上記に述べられた、骨法の歴史や堀辺の経歴が、実は全くの出鱈目である、という説が存在する。これに関し、主なものを列記する。
 
大東流合気柔術の佐川幸義の道場に入門し、同道場で知り合った吉丸貞雄(号・慶雪、現合気道研究家)の協力を得、堀辺が道場主、吉丸貞雄が実際の教授という形で「大東流伝合気道」と「換骨術」の道場を開くが、佐川幸義がこれを知り堀辺を破門にする(これについては、堀辺が作成した道場の広告等が現存している)。吉丸貞雄によると、この当時、堀辺は換骨術と称していたが、その内容は武術ではなく堀辺の家伝と称する整体術だったという。
その後、「換骨術」から「換骨拳」と改称し、これを源頼光に始まると称する武術とし、堀辺はその継承者・換骨拳第40代宗家を名乗る(これについても、堀辺が作成した道場の広告等が現存している)。換骨拳改称後も堀辺が道場主、吉丸貞雄が実際の教授という形だったようである。換骨拳に関しては、吉丸貞雄が執筆した著書『換骨拳入門』(非売品)があり、ここでは換骨拳が大東流の源流であるとの説が書かれてる(換骨拳について、吉丸貞雄は「義理で換骨拳の立ち上げを手伝った」としている)。
堀辺は、古伝骨法の技や堀辺家の家系図、『骨法由来記』なる江戸時代に書かれたと言う文献を公開しており、これらも堀辺の捏造、偽書とされる。
堀辺によると、堀辺家は源義光を源流とする常陸源氏の佐竹氏(始祖は佐竹昌義)の支流であり、九代佐竹義篤の乙王丸(または乙玉丸。母は妾梅局)を始祖とするとされているが、佐竹家系図には乙王丸は早死と書かれており、堀辺家を起こしたとは書かれていない(起こさなかったとも断言できないが)。ただし、早死にするような人間に武術を伝承しなおかつ次代に伝えられたかは疑問である。
源義光を開祖とする大東流の伝承に極めて似ており、当身技主体の武術を「骨法」と呼ぶ点や、大伴古麻呂を開祖としている点が、神道天心流の上野貴に極めて似ている(神道天心流の母体であった上野家伝の天真流は大伴古麻呂を開祖とする伝承がある)。
初期に公開された骨法の技術が中国武術の詠春拳や、ブルース・リーの創始した格闘技であるジークンドーなどに酷似している他、掌で叩き合う組手や立ち関節技の決め合いは武田流中村派合気術に酷似、著書で公開された足技なども、中国武術やマーシャルアーツ、テコンドー、日本拳法の技術に同じものが存在する(ただし中国武術やテコンドーにも無い、独自の技術も存在する)、秘技「徹し」が中国武術でいう発勁の一種、浸透勁と同じである(柔法徹化拳などにも同名の「徹し」はある)、など酷似する点があまりにも多く、疑わしいという見解がある。
 
 
堀辺は、換骨術を称していた頃より整体術も伝わっていたと称し、現在は「骨法整体」の講習を開催しているが、それが本当に古来から伝承されてきた骨法独自の整体治療の技術であるかどうかははなはだ疑問である。堀辺は塩川満章(日本人で初めて「ドクター・オブ・カイロプラクティック」(DC)を取得した)が開講している「シオカワ・カイロプラクティックスクール」の卒業生である。このことから、「骨法整体」は堀辺が塩川より学んだカイロプラクティックの技術をベースになんらかのアレンジを加えたものである可能性が非常に高い。
 
 
堀辺正史の著作
 
 
堀辺は、大東流合気柔術の佐川幸義の弟子であった(佐川幸義より中伝三段を授かった[1])が、佐川道場の兄弟子の吉丸貞雄(号・慶雪、現 合気錬体会主宰)と独立し[1]換骨拳を興した(吉丸によると「義理で換骨拳の立ち上げを手伝った」としている[2])。
 
このように、当初は「骨法」ではなく「換骨拳」という名称であったが、堀辺の著書などでは「換骨拳」については全く言及されていない。しかし、吉丸氏のHPには当時配布したチラシの写真が残っており、「換骨拳」という名称を用いていたことが確認できる。
 
また、佐川道場以前には武田流中村派に在籍。換骨拳道場立ち上げの際に多数の生徒を引き抜いて独立したことから、破門されている。
 
更に「骨法整体」に関しては、カイロプラクテック技術を応用したもの、という見方が強い。塩川章DCの講習会に参加していたことが、関係者から証言されている。
 
== 堀辺正史の著作 ==