削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
29行目:
2代藩主[[森長継]]の十二男(第二十四子)。[[貞享]]3年([[1686年]])[[3月18日 (旧暦)|3月18日]]、叔父の津山藩家老・[[関衆之]]の養子となる。[[元禄]]8年([[1695年]])[[10月4日 (旧暦)|10月4日]]、[[生類憐れみの令]]により建設される[[武蔵国]][[児玉郡]]中野村の犬小屋の普請総奉行に任命され、その建設に当たった。
 
元禄10年([[1697年]])4月、実子が無かった甥の4代藩主[[森長成]]の発病に伴い、関家の養子になっていた衆利が森姓に復し、[[末期養子]]に立てられた。[[6月20日 (旧暦)|6月20日]]、長成は27歳の若さで死去。将軍拝謁の為の道中、同年[[7月11日 (旧暦)|7月11日]]、[[伊勢国]]桑名付近の縄生村に滞在中に発病した上、幕政を批判して発狂してしまった。この発狂した理由は、中野村の犬小屋で浪人たちがその収容した犬達を沢山殺す事件を起こし、その管理を怠ったとして[[切腹]]した[[津山藩]]家臣の者である[[若林平内]]に対し、なぜこの様な法令の為に死なねばならぬのかという疑問があったからとされる。家臣は酒の席でのことと弁明をしたが、[[桑名藩]]より詳細な報告が幕府に入り裁定により[[8月2日 (旧暦)|8月2日]]に[[改易]]となってしまった。この時、隠居の長継がまだ存命だったので、聞こえおぼしき家柄である為、特別に再勤を命じられ、[[赤穂藩]]2万石を与えられ子孫は同藩主として存続する。
 
その後は兄の[[森長直|長直]]の下に預けられ、宝永2年(1705年)に[[赤穂藩#西江原藩|西江原]]において33歳で死去した。