「北条顕時」の版間の差分
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{{基礎情報 武士
| 氏名 = 北条 顕時
| 時代 = [[鎌倉時代]]中期 - 後期
| 生誕 = [[宝治]]2年([[1248年]])
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| 改名 = 時方、顕時、恵日
| 別名 = 越後四郎時方、赤橋殿
| 墓所 = [[横浜市]][[金沢区]]
| 官位 = [[左近将監]]、[[越後国|越後]][[国司|守]]、[[従五位]]上
| 幕府 = [[鎌倉幕府]]
| 主君 = [[宗尊親王]]
| 氏族 = [[北条氏]]
| 父母 = 父:[[北条実時]]、母:[[北条政村]]の娘
| 兄弟 = '''顕時'''、[[北条時直|時直]]、[[北条実政|実政]]、''時国''
| 妻 = 正室:'''[[安達千代野]]'''<br />[[遠藤為俊]]の娘、[[千葉泰胤]]の娘
| 子 = [[顕弁]]、[[北条顕実|顕実]]、[[北条時雄|時雄]]、[[北条顕景|顕景]]、'''[[北条貞顕|貞顕]]'''、<br />[[名越時如]]
| 特記事項 =}}
'''北条 顕時'''(ほうじょう あきとき)は、[[鎌倉時代]]中期から後期にかけての[[武将]]。[[北条氏]]の[[一門]]。'''金沢顕時'''とも。父は[[北条氏 (金沢流)|金沢流北条氏]]の初代で[[鎌倉幕府]]の重職を歴任した[[北条実時]]。正室は[[安達泰盛]]の娘・[[安達千代野|千代野]]。
==
[[正嘉]]元年([[1257年]])11月23日、10歳で[[北条時頼]]邸において[[元服]]し、越後四郎'''時方'''と名乗る。加冠役は時頼の嫡子で7歳の[[北条時宗]]であった。のちに'''顕時'''に改名。[[文応]]元年([[1260年]])に将軍家庇番衆となして[[宗尊親王]]に仕え、歌学などの学問を学ぶ<ref>『金沢貞顕』25頁・26頁。</ref>。[[文永]]6年([[1269年]])に[[引付衆]]となった後、[[弘安]]元年([[1278年]])には[[評定衆]]に加えられ、弘安3年([[1280年]])には越後守に任官。
弘安8年([[1285年]])11月17日、幕政を主導していた安達泰盛らが[[内管領]]・[[平頼綱]]に滅ぼされた[[霜月騒動]]では<ref>『金沢貞顕』9頁。</ref>、泰盛の娘婿にあたる顕時
永仁元年([[1293年]])4月
晩年は長年の激務から胃病を患って政務を退くが、貞時の信頼は厚く度々諮問を受けたという<ref>「胃を病呵せられて、休退を許すといえども、裁あるごとに諮問せらる、然る間、正安の暦清明に夭し」とある(『北条顕時十三廻忌諷桶文案』)『金沢貞顕』16頁。</ref>。
== 参考文献 ==▼
* [[永井晋]]『金沢貞顕』吉川弘文館人物叢書、2003年▼
正安3年(1301年)3月28日に死去<ref>『金沢貞顕』16頁。</ref>。享年54<ref>『金沢貞顕』16頁。</ref>。跡を子の貞顕が継ぎ、金沢北条家は引き続いて得宗家の厚い信任と抜擢を受け続けることになる<ref>『金沢貞顕』17頁。</ref>。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
▲== 参考文献 ==
▲* [[永井晋]] 『金沢貞顕』 吉川弘文館 人物叢書、2003年
{{先代次代|[[北条氏 (金沢流)|金沢流北条氏]]|第3代|[[北条実時]]|[[北条貞顕]]}}
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