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| 兄弟 = '''時氏'''、[[北条時実|時実]]、[[北条公義|公義]]、[[三浦泰村]]室<BR/>[[足利義氏 (足利家3代目当主)|足利義氏]]室、[[北条朝直]]室、[[池頼清]]室、他
| 妻 = 正室:'''[[松下禅尼]]'''
| 子 = '''[[北条経時|経時]]'''、[[北条時頼|時頼]]、[[北条時定 (時氏流)|時定]]、[[檜皮姫]]、[[足利泰氏]]室、<br/>[[北条時定 (時房流)]]室
}}
 
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建仁3年(1203年)、北条泰時(後の第3代執権)の長男として生まれる。
 
[[承久]]3年([[1221年]])の[[承久の乱]]では父・泰時とともに5月21日に18騎で最初から従軍する<ref>『北条泰時』〈人物叢書〉26頁</ref>。この乱の最中である6月14日の[[貞応宇治川]]3年([[1224年]])、父が第3代執権合戦では朝廷方の激しい抵抗宇治川の急流で幕府軍が苦戦して鎌倉に戻ったため、[[六波羅探題]]北方に任じいる中で自れて京都に赴任宇治川を敵前渡河する功績を立てた<ref>『北条泰時』〈人物叢書〉38頁・75頁。</ref>
 
[[貞応]]3年([[1224年]])、父が第3代執権として鎌倉に戻ったため、[[六波羅探題]]北方に任じられて京都に赴任する。
 
[[嘉禄]]3年([[1227年]])4月に修理亮に任官し、[[安貞]]元年([[1228年]])には若狭国の[[守護]]となり、第4代執権となることを期待されていたが、[[寛喜]]2年([[1230年]])3月に六波羅探題在職中に病に倒れて[[鎌倉]]へ戻り、回復せずに6月18日に父に先立って死去<ref>『北条泰時』〈人物叢書〉74頁。</ref>。享年28<ref>『北条泰時』〈人物叢書〉74頁。</ref>。奇しくも3年前に[[暗殺]]された弟の時実と同日の死であった<ref>『北条泰時』〈人物叢書〉75頁。</ref>。泰時は後継者として期待していた愛児に先立たれて悲しんだという<ref>『北条泰時』〈人物叢書〉75頁。</ref>。
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== 経歴 ==
日付=旧暦
* [[元仁]]元年(1224年)6月29日、幕府の六波羅探題北方に赴任。
* [[安貞]]元年(1227年)4月20日、従五位下に叙し、修理権亮に任官。
 
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
* [[上横手雅敬]] 『北条泰時』 [[吉川弘文館]]〈人物叢書〉、20001988年新装版 ISBN(1958年発刊)ISBN 4-642-05135-X
 
{{北条氏得宗}}