「江戸三座」の版間の差分

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===木挽町===
寛永19年 ([[1642年]])、[[山村長太夫|山村小兵衛]]という者が木挽町四丁目(こびきちょう、現在の[[中央区 (東京都)|中央区]][[銀座]]4丁目の昭和通りの東側)に櫓をあげ、これを'''山村座'''といった。続いて慶安元年([[1648年]]) には[[筑前国|筑前]]の狂言作家・[[河原崎権之助]]が木挽町五丁目(現在の銀座5丁目の昭和通りの東側)に櫓をあげ、これを'''河原崎座'''といった。さらに[[万治]]3年 ([[1660年]]) には[[摂津国|摂津]]の人で「うなぎ太郎兵衛」と呼ばれた[[森田勘彌|森田太郎兵衛]]がやはり木挽町五丁目に櫓をあげ、これを'''森田座'''といった。
 
こうして木挽町四五丁目界隈にも芝居茶屋<ref name=CHAYA />や芝居関係者の住居などが軒を連ね、一時は堺町・葺屋町に匹敵する芝居町を形成、「木挽町へ行く」と言えば「芝居見物に出かける」ことを意味するほどの盛況となった。この山村座・河原崎座・森田座の三座を、'''木挽町三座'''という。
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[[Image:Morita-za in the 1790s.jpg|thumb|left|300px|[[寛政|寛政年間]] (1789–1800) の木挽町森田座]]
 
しかし間もなく河原崎座が座元の後継者を欠いて[[倒産|休座]]になったので、[[寛文]]3年 ([[1663年]]) に森田座がこれを吸収するかたちで合併した。さらに正徳4年 ([[1714年]]) には[[江島生島事件]]に連座して座元の[[山村長太夫|五代目山村長太夫]]が[[伊豆大島]]に[[追放|遠島]]となり、山村座は官許取り消し、廃座となった。こうして木挽町にはひとり森田座が残るのみとなり、あたりには次第に閑古鳥が鳴きはじめる。森田座の経営は年を追うごとに悪化の一途をたどり、ついに享保19年 ([[1734年]]) には地代の滞納がかさんで地主から訴えられてしまう。南町奉行[[大岡忠相|大岡越前]]の裁きは地主側の訴えを全面的に認めたものとなり、森田座は返済で首が回らなくなって、とうとうこれも休座に追い込まれてしまった。
 
慌てたのは芝居関係者だった。芝居小屋は役者や[[作者 (曖昧さ回避)|狂言作者]]を雇っているだけではなく、周囲に数々の芝居茶屋<ref name=CHAYA />や浮世絵の[[浮世絵|版元]]などを従えた歓楽街の中核である。それがなくなってしまうということは、木挽町全体の死活問題でもあった。そこで森田座に代わる新しい櫓をあげることが模索されたが、すでにこの頃までに官許三座制が確立しており、新規の櫓が認められることはまず望めない。それならばと、かつて官許を得ながら廃座になった河原崎座・都座<ref>寛永10年 (1633) に都伝内(みやこ でんない)という者が堺町に櫓をあげ、これを'''都座'''といったが、間もなく経営難で廃座となった。</ref>・桐座<ref>寛文元年 (1660) に桐大内蔵(きり おおくら)という者が木挽町五丁目に櫓をあげ、これを'''桐座'''といったが、これも間もなく経営難で廃座となっている。</ref>の座元の子孫が名乗り出て、それぞれ先祖の由緒書とともに旧座の再興を願い出た。
 
街の灯が消えてしまうことは治安の面からも望ましいことではなかったので、町奉行所としては何らかのかたちで座の再興は容認することにしていた。しかし三座制の手前もあり、彼らすべてにこれを許すわけにはいかない。そこで再興するのはあくまでも森田座であるとし、三者のうちの一人が森田座の興行権を代行するというかたちでこれを許すことにした。そして森田座の[[財務|勝手向き]]が改善したあかつきには、代興行主はすみやかに興行権を元へ戻すという条件をこれにつけ加えた。
 
こうして三者によるくじ引きの結果、[[河原崎権之助|二代目河原崎権之助]]が代興行権を引き当て、翌享保20年 ([[1735年]]) に河原崎座を再興した。のちには都座と桐座もそれぞれ経営難におちいった中村座と市村座の興行権を代行し、この'''中村座と都座'''、'''市村座と桐座'''、'''森田座と河原崎座'''、という枠組みが「本櫓と控櫓」という代興行の制度慣行として定着した。
 
控櫓の中でも河原崎座は森田座の興行権を頻繁に代行した。これは森田座の経営が極めて不安定で、資金繰りに行き詰まっては休座するということが特に多かったためである<ref>ただし時代が下ると、本櫓と控櫓の関係は表裏一体に近いものとなり、代興行は負債逃れのひとつの手段として用いられるようになる。つまり本櫓の借金がかさんで首が回らなくなると、休座によってその負債をいったん棚上げにし、代わって控櫓がゼロから商売をやり直す。控櫓が行き詰まるとやはり同じように休座して負債を棚上げにし、ほとぼりの冷めた本櫓がこれにとって代わるという具合である。</ref><ref name=MORITA>森田座は[[安政]]4年 (1858) に座名を'''守田座'''と改めているが、これは積年の経営不振を座名のせいにした改称として知られている。「森の下に田」では陽当たりが悪くて実のりが悪いのも当然で、これを「田を守る」と改めればきっと豊作になるだろう、という[[縁起|験]]をかついだのだった。</ref>。森田座の地には、時に20年近くにわたって河原崎座が櫓をあげていたこともあった<ref>天保8年 (1837) から安政3年 (1856) まで。</ref>。今日残る江戸三座を描いた錦絵や江戸府内の地図には、中村座と市村座にならんで河原崎座が描かれているものが多いのはこのためである。