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{{Otheruses|1943年の会談|1944年の会談|第2回ケベック会談}}
[[ファイル:Quebec conference 1943.png|thumb|第1次ケベック会談に出席中の[[ウィリアム・ライアン・マッケンジー・キング|マッケンジー・キング]]、[[フランクリン・ルーズベルト]]および[[ウィンストン・チャーチル]]。]]
'''ケベック会談'''(ケベックかいだん、コードネーム “QUADRANT”)とは、[[第二次世界大戦]]中に[[イギリス]]、[[カナダ]]および[[アメリカ合衆国]]によって開かれた秘密軍事会合である。開催場所はイギリス自治領だった[[カナダ]]の[[ケベック・シティー]]の[[シタデル (ケベック)|シタデル]]と[[シャトー・フロンテナック]]で、[[1943年]]8月17日から8月24日に行われた。主な出席者は、[[イギリス首相]]の[[ウィンストン・チャーチル]][[アメリカ合衆国大統領]]の[[フランクリン・ルーズベルト]]、[[カナダ首相]]の[[ウィリアム・ライアン・マッケンジー・キング]]も関わったが正式な参加国あるはなかった<ref name="WC35">チャーチル(1984年)、35頁。</ref>。会談のコードネームは“QUADRANT”(四分円)。1944年の会談との関係で、'''第1回ケベック会談'''とも呼ぶ。
 
== 経緯 ==
1943年7月、[[ハスキー作戦]]によりシチリア島の戦いが[[連合国 (第二次世界大戦)|連合軍]]の勝利に終わり、[[イタリア]]の[[ベニート・ムッソリーニ]]が失脚するなど、第二次世界大戦の戦局は大きく変化した。これらの情勢の変化を踏まえ、ルーズベルトとチャーチルは、5月の[[ワシントン会談 (1943年)|第3回ワシントン会談]]に続き、再度の英米首脳会談を行う必要があると一致した<ref name="WC35" />。そこで、ルーズベルトの提案により、ケベックを開催場所として会談が行われることになった。
 
チャーチル一行200人と護衛兵は、客船「[[クイーン・メリー (客船)|クイーン・メリー]]」でハリファックスへと向かった。航海中、[[フランス]]への反攻作戦や[[ビルマの戦い|ビルマ戦線]]について、イギリス側の案の検討が行われた。
 
== 議題と合意内容 ==
[[ファイル:RooseveltChurchillMackenzie.jpg|thumb|[[シタデル (ケベック)|シタデル]]に集まったマッケンジー・キング、ルーズベルト、チャーチルと[[カナダの総督|カナダ総督]]の[[アレクサンダー・ケンブリッジ]]([[:en:Alexander Cambridge, 1st Earl of Athlone|en]])。]]
秘密議事録によれば、出席した連合国の首脳により、フランスへの反攻計画「[[ノルマンディー上陸作戦|オーバーロード作戦]]」の実施が合意された。そして、ドイツ本土への爆撃の強化や、フランス上陸に備えたアメリカ軍のイギリス本土進出の継続が約束された。
'''ケベック会談'''(ケベックかいだん、コードネーム “QUADRANT”)とは、[[第二次世界大戦]]中に[[イギリス]]、[[カナダ]]および[[アメリカ合衆国]]によって開かれた秘密軍事会合である。開催場所は[[カナダ]]の[[ケベック・シティー]]の[[シタデル (ケベック)|シタデル]]と[[シャトー・フロンテナック]]で、[[1943年]]8月17日から8月24日に行われた。主な出席者は、[[イギリス首相]]の[[ウィンストン・チャーチル]]、[[アメリカ合衆国大統領]]の[[フランクリン・ルーズベルト]]、[[カナダ首相]]の[[ウィリアム・ライアン・マッケンジー・キング]]である。1944年の会談との関係で、'''第1回ケベック会談'''とも呼ぶ。
 
秘密議事録によれば、出席した[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]の首脳により、[[フランス]]への反攻計画「[[ノルマンディー上陸作戦|オーバーロード作戦]]」の実施が合意された。そして、ドイツ本土への爆撃の強化や、フランス上陸に備えたアメリカ軍のイギリス本土進出の継続が約束された。チャーチルが強い関心を寄せる[[地中海の戦い (第二次世界大戦)|地中海戦線]]についても、[[イタリア]]の[[枢軸国]]からの脱落とイタリア本土及び[[コルシカ島]]攻略を狙った戦力の集中を図るものと決めた。[[バルカン半島]]に対する作戦は[[ゲリラ]]への援助にとどめることになった。
 
一方、[[バルカン半島日本]]に対する作戦して[[ゲリラ]]への援助、ドイツ降伏後12カ月以内とどめる屈服に追い込むことになっが目標とされた。一方そのために[[日本]]に対しては、国力を消耗させること、交通線を遮断すること、本土攻撃のための前進拠点を確保することを目標にための、より活発な作戦行動を展開する方針が決定されている。以上中国へ戦略に関する合意は、[[ソビエ援蒋ルー連邦]]については、陸路の連絡回復と[[蒋介石ハンプ越え]]率いによ[[中国]]空輸強化も連絡努めることが決定された<ref>チャーチル(1984年)、47頁。</ref>
 
以上の戦略に関する合意は、[[ソビエト連邦]]と[[蒋介石]]率いる[[中国]]にも連絡された。そのほかの議題として、激化した[[イギリス委任統治領パレスチナ]]での反英運動をなだめるため、共同声明も公表された。ケベック会談では、ドイツの[[ポーランド]]における残虐行為にも言及されている。
 
核兵器の開発についても、3カ国の協力体制強化が話し合われた。チャーチルとルーズベルトは、核兵器技術共有に関しての合意書である[[ケベック協定]]にも密かに署名していた。
 
== 脚注 ==
{{Reflist|2}}
 
== 参考文献 ==
* [[ウィンストン・チャーチル]](著)、[[佐藤亮一]](訳) 『第二次世界大戦 4』 河出書房新社〈河出文庫〉、1984年。
 
== 関連項目 ==
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* {{Citation | publisher = Winston Churchill | url = http://www.winstonchurchill.org/learn/in-the-media/newsreels/churchill-at-the-first-quebec-conference-1943 | title = Learn | section = In the media | contribution = Churchill at the First Québec Conference, 1943 | format = archival news footage}}.
 
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[[Category:第二次世界大戦の国際会議]]
[[Category:ケベック州|かいたん1]]
[[Category:カナダの歴史]]
[[Category:1943年]]