「白河 (洛外)」の版間の差分

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ところが、[[藤原良房]]が白河に別業(別荘)である[[白河殿]]を造営して以後、別業・寺院の建立が相次いだ。[[藤原道長]]は白河殿でしばしば観桜の宴(花見)などの四季の行事を行い、庶流にあたる[[藤原済時]]や[[藤原公任]]も白河に別業を設けたとされている。白河殿は[[藤原師実]]の代に時の[[白河天皇]]に献上される。白河天皇により、師実実兄の[[覚円]]を[[別当]]とした[[法勝寺]]が造営された。その後、歴代天皇・皇后によって建てられた5つの寺院とともに「[[六勝寺]]」と呼ばれた。また、白河天皇は退位後の[[寛治]]4年([[1090年]])頃に旧の覚円の僧房を御所(白河泉殿)とし、続いて[[永久 (日本)|永久]]3年([[1115年]])に白河泉殿を改築して白河南殿を造営、更に[[元永]]元年([[1118年]])にはその隣接地に白河北殿を新造して2つの御所を行き来しながら[[院政]]を行った。白河が事実上の政治の中心となったため、本来は平安京の外であった白河が「京白河」と称された。だが、[[治承・寿永の乱]](源平合戦)で交通の要所であった白河の地は荒廃し、窮民によって御所や寺院が荒らされていく様子が『[[玉葉]]』などに記されている。
 
[[鎌倉時代]]に入ると、白河の中心部は「岡崎」と称されるようになり、[[後鳥羽天皇|後鳥羽上皇]]が[[承元]]2年([[1208年]])に白河に御所を造営した際に「岡崎御所」と称されて(『[[百錬抄]]』)以後、岡崎という呼称も用いられるようになる。この時代には岡崎(白河)の住宅地化が進み、元来白河に含まれていなかった白川の北側もその地域的範疇に含めるようになる。また[[南禅寺]]も創建された。[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の法勝寺の火災も近くの民家火災によるとされている(『[[太平記]]』)。
 
[[室町時代]]には南白河においては、「岡崎」の呼称が定着し、「白河」という地名は白川の北側の「北白川」を指すようになっていく。だが、[[応仁の乱]]では岡崎が戦場となり、北白川も目前の東山に[[北白川城]]が築かれて度々攻防戦が行われるなど、[[戦国 (日本)|戦国]]乱世の影響を確実に受けている。その一方で、北白川では[[水車]]による精米作業や「[[白川女]]」による[[花]]の[[行商]]などの活動で知られるようになる。