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{{出典の明記|date=2012年3月}}
{{独自研究|date=2012年3月}}
[[画像:Georges bizet.jpg|thumb|ビゼー]]
{{クラシック音楽}}
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[[1869年]]にビゼーは師アレヴィの娘であるジュヌヴィエヴ・アレヴィと結婚した。師は既に(1862年)亡くなっていた。『カルメン』初演の約3ヵ月後である[[1875年]][[6月3日]]、[[敗血症]]のため36歳7ヶ月の若さで世を去ったが、後にビゼーの音楽は世界的に認められるようになった。
 
{{要出典範囲|なお妻のジュヌヴィエヴは後にビゼーとの間の息子のジャックを連れて、[[ロスチャイルド家|ロスチャイルド財閥]]の顧問弁護士であるユダヤ人エミール・ストロースと再婚し、花形サロンを形成した。ジャックの学友の[[マルセル・プルースト]]が後に自分の小説『[[失われた時を求めて]]』のなかで彼女をモデルとしてゲルマント公爵夫人を造形した。|date=2010年3月}}
 
== 作品 ==
ビゼーは生涯で交響曲を3曲書いたが、1859年に作曲された第2番の草稿は破棄されてしまい、第3番は作曲されたのかどうかも判然としない。その他にも管弦楽曲、合唱曲、歌曲、編曲作品などがある。