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'''カルボナリ'''({{lang-it|Carbonari}}、{{lang-fr|Charbonnerie}})は、19世紀前半に[[イタリア]]と[[フランス]]に興った革命的[[秘密結社]]。[[急進主義|急進]]的な[[立憲自由主義]]([[憲法]]に立脚する[[自由主義]])を掲げ、[[ノーラ (ナポリ県)|ノーラ]]、[[トリノ]]をはじめ各地で[[武装蜂起]]を企てた。
[[画像:Banner of the Carboneria.png|200px|thumb|カルボナリの旗]]
== 起源 ==
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== 勃興 ==
ナポリ王フェルディナンド4世(Ferdinando IV、[[両シチリア王国|両シチリア]]王としては[[フェルディナンド1世 (両シチリア王)|フェルディナンド1世]])を廃した[[ナポレオン・ボナパルト]](Napoléon Bonaparte)は、兄[[ジョゼフ・ボナパルト|ジョゼフ]](Joseph Bonaparte)にナポリの統治を任せることを決定。[[1806年]][[3月30日]]、ジョゼフはナポリ王ジュゼッペ・ボナパルテ(Giuseppe Bonaparte)として即位した。これに随行した旧[[ジャコバン派]]の人々によって、[[フランシュ=コンテ地域圏|フランシュ=コンテ]]における結社の思想がナポリに伝播。イタリア南部の[[カラブリア州|カラブリア]]に亡命していた[[共和主義者]]によって、カルボナリが誕生したとの説が有力である。
 
ジュゼッペに替わり[[1808年]]にナポリ王に就いたナポレオンの義弟[[ジョアシャン・ミュラ]](Joachim Murat)ことジョアッキーノ・ミュラ(Gioacchino Murat)は、就任当初はカルボナリを快く思っていなかったが、ナポレオンとの間に齟齬が生じると、ナポレオン体制を否定するカルボナリに利用価値を見出し、これを陰で庇護。国王の後ろ盾を得たカルボナリは、南イタリア一帯に勢力を伸ばした。しかし[[1812年]]に[[シチリア]]で自由憲法が発布されると、ナポリでも憲法制定を要求する運動が盛んになり、カルボナリは一転してミュラの専制に敵意を露にした。
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この動乱のさなかに離党した[[ジュゼッペ・マッツィーニ]](Giuseppe Mazzini)は1831年、亡命先の[[マルセイユ]]で[[青年イタリア]](Giovine Italia)を結成。残存勢力の多くがこれに合流した。
 
フランスのシャルボンヌリーも、所期の目的である革命が成功すると急速に解体。この成果に飽き足らず、ルイ・フィリップの王政に不満を持った急進勢力は、他の[[共和主義]]団体に籍を移して革命運動を継続した。
 
== 影響 ==