「ムンダの戦い」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
m →‎会戦後: リンク追加
53行目:
小ポンペイウスは逃亡中にカエサル軍に捕捉されて処刑され、[[プブリウス・アッティウス・ウァルス]](Publius Attius Varus)は戦死した。セクストゥスは[[大西洋]]岸まで落ち延びていったものの、カエサルの権力に抗しうるだけの軍勢はもはや持たなかった。ムンダの戦いでの勝利を以てローマ内戦は事実上終了、カエサルはムンダ戦勝の凱旋式をローマ市で挙行した。この凱旋式でカエサルは[[マルクス・アントニウス]]と同じ車に乗り、その後ろに[[デキムス・ユニウス・ブルトゥス・アルビヌス]]とトゥリヌスが随伴した<ref>プルタルコス「英雄伝」アントニウス11</ref>。
 
終身[[独裁官]]として並ぶ者の無い絶対的な権力を手中に収め、人生の絶頂を迎えたカエサルであったが、ムンダの戦いから約1年後の[[紀元前44年]][[3月15日]]、[[共和主義者]]によって[[暗殺]]された。
 
== 参考資料 ==