「二本松持重」の版間の差分

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{{基礎情報 武士
| 氏名 = 畠山 持重
| 画像 =
| 画像サイズ =
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| 主君 =
| 藩 =
| 氏族 = [[二本松畠山氏|二本松畠山氏]]
| 父母 = 父:[[畠山満泰]]
| 兄弟 = [[畠山満盛|満盛]]、'''持重'''、[[高玉家重]]
| 妻 =
| 子 = '''[[畠山政国 (二本松畠山家)|政国]]'''
| 特記事項 =
}}
'''畠山 持重'''(はたけやま もちしげ)は、[[室町時代]]の[[武将]]。[[二本松氏|二本松畠山氏]]第95代当主。[[陸奥国]][[安達郡]][[二本松城]]主。
 
== 経歴生涯 ==
二本松畠山氏第74代当主・[[畠山満泰]]の男。この時期の二本松畠山氏の系譜については諸説有る。
 
第8代兄の満盛が早世し(『積達館基考』では、満盛は生前に満泰から家督を譲られて当主なっていた兄の[[畠山満盛|満盛]]が死去た際ている)その遺児・徳万丸まだ幼かったため、持重が家督を相続し二本松畠山氏第5代当主となった。ところが成長した徳万丸が元服して[[高倉政泰|政泰]]と名を改めると、持重に家督の返上を迫ったため争いとなり、敗れ。争いに勝った持重は政泰二本松から逐われたが、政泰は[[安積郡]]高倉に逃れて別家高倉氏を興し、持重と争い続けた(のちに政泰が勝利し、家督を得た可能性も指摘されている)。こうした内紛により畠山氏の勢力は15世紀後半以降さらに衰えることとなった。
 
[[長禄]]4年([[1460年]])4月には、将軍・[[足利義政]]から、[[古河公方]]・[[足利成氏]]討伐への参加を命じる御内書を下されている。
 
[[文明 (日本)|文明]]2年([[1470年]])2月16日死去。嫡男[[畠山政国 (二本松畠山家)|政国]]が家督を相続した。
 
== 参考文献 ==
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**第3巻 資料編1(原始・古代・中世)1981
 
{{二本松畠山家当主||第95代|1438年1448 - 1470}}
{{DEFAULTSORT:はたけやま もちしけ}}
[[Category:二本松畠山氏|もちしけ]]