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[[Image:Solidus-Crispus-sirmium RIC -.jpg|thumb|300px|クリスプスが描かれた硬貨]]
'''フラウィウス・ユリウス・クリスプス'''(Flavius Julius Crispus、? - [[326年]])は[[ローマ皇帝]][[コンスタンティヌス1世]]の息子で、彼に任じられた[[副帝]]である。
 
クリスプスはコンスタンティヌスの長子であり、コンスタンティヌスの最初の妻[[ミネルウィナ]]の息子である<ref>ギボン [1996b], p. 99</ref>。クリスプスは[[ラクタンティウス]]の教えを受け、教養豊かな青年に育った<ref>ibid, p. 100</ref>。17歳で副帝になったクリスプスは父帝によって[[ガリア|ガリア属州]]の統治権を与えられ、ここでの[[蛮族]]に対する戦いで軍事的才能を発揮した<ref>ibid, p. 100</ref>。その後、コンスタンティヌスと[[リキニウス]]の戦いにおいてクリスプスは父の下で戦ってその軍事的才能を大いに発揮し、[[324年]]の[[ヘレスポントスの海戦]]では艦隊を率いてリキニウス艦隊を破った<ref>ギボン [1996a], p. 252-253</ref>。これらの功績によって、以後老境に入っていたコンスタンティヌスへの人々の人気はクリスプスに集ま吸い寄せられることになった<ref>ギボン [1996b], p. 100</ref>。しかし、これが父の嫉妬と猜疑を呼び、腹違いの弟[[コンスタンティウス2世]]が副帝になってガリアの統治に送り込まれると、クリスプスは宮廷内に軟禁状態に置かれた<ref>ibid, p. 102</ref>。
 
クリスプスはコンスタンティヌスの治世20年を祝う式典の時、祝典のどさくさにまぎれて逮捕され、[[イストリア]]の[[プーラ (クロアチア)|ポーラ]]に送られて処刑された<ref>ibid, p. 103-4</ref>。継母[[ファウスタ]]の誘惑をクリスプスが拒絶したために、彼女がコンスタンティヌスの猜疑を扇動して殺させたとも言われる<ref>ibid, p. 106</ref>。なお、このコンスタンティヌスの道な行いを、彼の伝記を書いた[[エウセビオス]]は弁護の余地がなかったためか、その中では黙殺している<ref>ibid, p. 104</ref>。
 
== 註 ==