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== 経歴 ==
[[1876年]](明治9年)[[岡山県]]に生まれる。少年時代は『雪中梅』([[末広鉄腸]])や『経国美談』([[矢野龍渓]])などの[[政治小説]]を好んだ。家は代々農業を営んでおり、1892年(明治25年)、岡山県尋常中学校(後の岡山一中、現在の[[岡山県立岡山朝日高等学校]])に入学するが翌年退学、1894年(明治27年、父に書置一通を残し上京。[[慶應義塾]]に入るも父の急逝により2ヶ月で退学し、帰郷、一年余り家業に就く。その間、村井弦斎・尾崎紅葉・泉鏡花等の軟文学に親しんだ。1896年(明治29年、小説家を志し、9月再度上京し、国民英学会に英語を、漢学私塾[[二松學舍]](現[[二松學舍大学]])にて漢学を学んだ。[[1898年]](明治31年)、東京専門学校(後の[[早稲田大学]])[[文学部]]史学科に入学。卒業後、[[坪内逍遥]]の紹介で、[[博文館]]に入社するも5ヶ月で退社。その後、東京専門学校出版部に入る。1904年(明治37年)、[[中央公論]]の記者となるが、ここも7ヶ月で退社している。文壇デビューは、在学中の[[1901年]](明治34年)、[[読売新聞]]紙上の[[文学]]合評「月曜文学」第一回、「鏡花の註文帳を評す」である。最初の小説は『食後』(1907年)。[[作家]]としての地位を確立したのは、『別れたる妻に送る手紙』や『黒髪』を代表とする、いわゆる情痴文学である。晩年は両目とも失明した。
明治9年([[1876年]])[[岡山県]]に生まれる。少年時代は『雪中梅』([[末広鉄腸]])や『経国美談』([[矢野龍渓]])などの[[政治小説]]を好んだ。家は代々農業を営んでおり、25年、岡山県尋常中学校(後の岡山一中、現在の[[岡山県立岡山朝日高等学校]])
に入学するが翌年退学、27年、父に書置一通を残し上京。[[慶應義塾]]に入るも父の急逝により2ヶ月で退学し、帰郷、一年余り家業に就く。その間、村井弦斎・尾崎紅葉・泉鏡花等の軟文学に親しんだ。29年、小説家を志し、9月再度上京し、国民英学会に英語を、漢学私塾[[二松學舍]](現[[二松學舍大学]])にて漢学を学んだ。[[1898年]]東京専門学校(後の[[早稲田大学]])[[文学部]]史学科に入学。卒業後、[[坪内逍遥]]の紹介で、[[博文館]]に入社するも5ヶ月で退社。その後、東京専門学校出版部に入る。1904年、[[中央公論]]の記者となるが、ここも7ヶ月で退社している。文壇デビューは、在学中の[[1901年]]、[[読売新聞]]紙上の[[文学]]合評「月曜文学」第一回、「鏡花の註文帳を評す」である。最初の小説は『食後』(1907年)。[[作家]]としての地位を確立したのは、『別れたる妻に送る手紙』や『黒髪』を代表とする、いわゆる情痴文学である。晩年は両目とも失明した。
 
筆名の近松秋江は、[[近松門左衛門]]を慕うことから近松、また秋の絵を好むことから秋江としたといわれる。また、はじめは徳田秋江を使用していたが、[[徳田秋声]]の弟子だと思われることがあったため改名した。