「第3回十字軍」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Luckas-bot (会話 | 投稿記録)
m r2.7.1) (ロボットによる 追加: an:Tercera cruzata
編集の要約なし
1行目:
[[ファイル:SaracensBeheaded.jpg|right|230px]]
'''第3回[[十字軍]]'''([[1189年]] - [[1192年]])は、[[アイユーブ朝]]の始祖であり「[[イスラム]]の擁護者」と目された[[サラーフッディーン]](サラディン)により征服された聖地[[エルサレム]]を、[[ヨーロッパ]]の[[キリスト教]]諸国が奪還するために開始された。
 
==第3回十字軍の経過==
===サラーフッディーンによるエルサレム征服===
[[1169年]]に[[エジプト]]の実権を掌握したサラーフッディーンは、[[1171年]]には[[宰相]]を務めていた[[ファーティマ朝]]を滅ぼして自らアイユーブ朝を開くと、その後の彼は[[パレスチナ]]の地からキリスト教勢力を駆逐するという信念の実現に生涯をかけて尽力した。[[1174年]]に[[歴史的シリア|シリア]]を傘下に治め、十字軍王国の包囲体制を整えた。[[1187年]][[7月4日]]、サラーフッディーンは[[ハッティンの戦い]]で十字軍に勝利し、[[10月2日]]にエルサレムが降伏して[[エルサレム王国]]は滅亡した。この時、十字軍とは反対にキリスト教徒の虐殺は行われなかった。一方、キリスト教勢力の拠点は、[[アンティオキア]]、[[トリポリ (レバノン)|トリポリ]]、[[ティルス|ティール]]、[[マルガット城|マルガット]]を残すのみとなった。
 
=== 教皇グレゴリウス8世による聖地奪回の呼びかけ ===
この事態に対して[[ローマ教皇|教皇]][[グレゴリウス8世 (ローマ教皇)|グレゴリウス8世]]は、聖地奪還を目的とする新たな十字軍の派遣を[[イングランド王国|イングランド]]や[[フランス王国|フランス]]に呼びかけた。イングランド王[[ヘンリー2世 (イングランド王)|イングランド王ヘンリー2世]]とフランス王[[フィリップ2世 (フランス王)|フランス王フィリップ2世]](尊厳王)は領土問題を巡って戦争状態にあったが、要請を受けたことでこれを終結し、双方とも国内では「サラディン税」を課して十字軍編成のための資金とした。しかし両国間の戦争はすぐに再開し、さらにイングランド国内では、ヘンリーの息子[[リチャード1世 (イングランド王)|リチャード]]がフィリップに臣従し父と敵対していた。
 
===フリードリヒ1世の第一陣===
[[神聖ローマ帝国]]の[[皇帝]][[フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ1世]](赤髭王)も教皇の呼びかけに答え、十字軍の第一陣として[[1189年]]に出発した。フリードリヒはその途上、サラーフッディーンと秘密協定を結んでいた[[東ローマ帝国]]の皇帝[[イサキオス2世アンゲロス]]の敵対的行為に直面した。このため十字軍は東ローマ領を急いで通過せざるを得なかった。その後、1189年[[5月18日]]に[[クルチ・アルスラーン2世]]が治める[[ルーム・セルジューク朝]]の首都[[イコニウム]]を占領した。しかし[[1190年]][[6月10日]]フリードリヒが[[キリキア]]のサレフ川で溺死してしまった。彼らは数の上ではサラーフッディーンよりも多かったが、フリードリヒを失ったことから早くも解散してしまった。一部の者は向かった先のシリアで戦いに敗れた。
 
===リチャード1世とフィリップ2世によるアッコン征服===
[[1191年]]、イングランド王[[リチャード1世 (イングランド王)|イングランド王リチャード1世]](獅子心王)とフィリップ2世は共に海路ではあるが、関係が悪化していたため別々にパレスチナに到着した。リチャードの船団はその途上で嵐にあい、何隻かが[[キプロス|キプロス島]]まで流されたが、その時東ローマ帝国から離反していた島の統治者が漂着した財宝を略奪し、乗員らを身代金目当てで牢に入れたため、リチャードは戦って5月末までに島全体を占領した。そして一旦は[[テンプル騎士団]]に島の統治を委ねるが、翌年、旧知のエルサレム王国の前国王[[ギー・ド・リュジニャン]]にこの島を譲渡した。一方、フィリップはティールに到着して、エルサレム王国の王位継承を主張しギーと対立していたモンフェラート侯[[コンラート1世 (モンフェラート侯)|モンフェラート侯コンラー1世]]と同盟を結んだ。
 
1191年4月、フィリップらは先のフリードリヒの敗残兵を加えて[[アッコン]]の攻囲を開始し、6月にはリチャードの軍が包囲に加わった。アイユーブ朝軍は包囲を破ろうと試みたが撃退され、[[7月12日]]アッコンは陥落した。しかしその後、十字軍側の3人の司令官の間に内部抗争が起きた。ドイツ人たちの司令官であった[[オーストリア公]][[レオポルト5世 (オーストリア公)|オーストリア公レオポルト5世]]は、リチャードやフィリップと同列に扱われることを欲し自身の旗を掲げたが、リチャード側はこれを撤去したため、激怒したレオポルトは十字軍から離脱し帰路についた。一方フィリップは病気を理由に7月末に帰国し、リチャードは十字軍でただ一人残ったキリスト教国の君主として戦うはめになった。
 
=== リチャード1世とサラーフッディーンの休戦協定 ===
[[8月20日]]リチャードはアッコン降伏時の協定をサラーフッディーンが遵守していないとして、拘留されていた[[ムスリム]]2700人あまりを処刑した。リチャードはエルサレムを攻撃するための出発地として港町[[ヤッファ]](ヤッフォ)の奪取を計画した。9月にアルスフを行軍していた彼らをサラーフッディーンが攻撃したが、リチャードはこの戦いで目覚しい勝利を挙げた([[アルスフの戦い]])。[[1192年]]1月にはエルサレムへの進撃の準備が整ったが、サラーフッディーンは軍勢を増強し、都市を要塞化して待ち構えていた。リチャードは2回ほどエルサレムに接近したが、サラーフッディーンの大軍を目の当たりにして軍を退いた。7月に入るとサラーフッディーンがヤッファの奪還に動き出すも、[[7月31日]]の戦闘で数では勝っていたはずにもかかわらずリチャードの軍に敗れ、失敗した。
 
リチャードの軍勢は疲弊し、いつまでたってもエルサレムを落とせないことに対する不満や国へ帰りたいという不満が軍の中に渦巻いていた。1192年[[9月2日]]、リチャードとサラーフッディーンは1年以上に及ぶ交渉の結果、アッコンを含みティールからヤッファに至る沿岸部のいくつかの港をエルサレム王国の管理下に置き、エルサレムはイスラム教徒の統治下に置くという最終的な[[休戦協定]]を結んだ。また但し書きとして非武装の[[キリスト教徒]]の[[巡礼者]]がエルサレムを訪れることを許可するという条件も加えられた。9月末、リチャードはイングランドに向けて出発し、第3回十字軍は終了した。
 
==第3回十字軍の影響==
 
第3回十字軍を巡るさまざまな出来事についての記述は、[[ノルマン人]]の[[詩人]]アンブローゼや[[ウェールズ]]の歴史家ジラルドゥス・カンブレンシスの著作に見ることができる。
 
*[[エルサレム]]こそ奪回できなかったが、[[ハッティンの戦い]]以降の[[サラーフッディーン]]の破竹の進撃を食い止め、沿岸部の都市のいくつかを取り戻した。特に[[アッコン]]を奪回し[[キプロス]]を占領することにより、[[レバント]]貿易を維持し、以降、100年弱に渡りキリスト教勢力は海岸線を保つことができた。
 
*[[東ローマ帝国]]の十字軍への非協力や十字軍側のキプロス占領などにより、東ローマと西欧側の軋轢は一層激しくなった。
 
*[[ローマ教皇]]は各国王が主体の十字軍に失望し、再び[[第1回十字軍]]のような[[諸侯]]十字軍を望むようになった。
 
*十字軍終了後もアッコンに残った[[ドイツ人]]たちは、後の[[ドイツ騎士団]]の基礎となる野戦病院を創設した。
 
*サラーフッディーンはこの戦いで病気がちになり、第3回十字軍の1年後、[[1193年]]にダマスカスで死去し、その後は子供らによる後継争いが9年間続いた。結果、アイユーブ朝は[[アル・アーディル]]により統一される。
 
42 ⟶ 36行目:
{{commonscat|Third Crusade}}
 
{{デフォルトソート:たい3かいしゆうしくん}}
[[Category:十字軍|3]]
[[Category:イギリスングランドの歴史|たい3かいしゆうしくん]]
[[Category:1189年]]
[[Category:1190年代]]
 
{{Link GA|cs}}