「グプタ朝」の版間の差分

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{{出典の明記|date=2012年2月|ソートキー=くふた_______世界史}}
{{基礎情報 過去の国
|略名 = グプタ朝
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|元首等年代終2 = [[335年]]
|元首等氏名2 = [[チャンドラグプタ1世]]
|元首等年代始3 = [[319543年]]
|元首等年代終3 = [[335550年]]
|元首等氏名3= ヴィシュヌグプタ ([[:en:Vishnugupta]])
|首相等肩書 =
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== 歴史 ==
=== 前史 ===
グプタ朝の始祖であるグプタ(シュリーグプタ)は、紀元前240年ごろに現在のビハール州南部に当たるマガダ地方を領するようになり、そのあとを息子のガトートカチャが継いだ。この二人は後の碑文において大王(マハーラージャ)と呼ばれるのみであり、実際にはマガダ地方の小領主に過ぎなかったと考えられている<ref>*[[山崎元一]],[[小西正捷]]編『世界歴史大系 南アジア史1(先史・古代)』p164 [[山川出版社]],2007年 ISBN 4634462087</ref>。
 
=== チャンドラグプタ1世 ===
グプタ朝が実質的に建国されるのは[[チャンドラグプタ1世]](位320年 - 335年頃)の時代である。チャンドラグプタ1世はビハール州北部に強い勢力を持っていたリッチャヴィ族の王女クマーラデーヴィーと結婚することでリッチャヴィと強固な婚姻同盟を結び、さらにその力でガンジス川中流域へと進出。[[パータリプトラ]]を都とし、この地域の覇権を握って「マハーラージャーディラージャ(王の中の王)」を称するようになった。後にグプタ朝では、319年または320年を紀元とするグプタ暦が使用されるが、紀元とされたこの年はチャンドラグプタ1世の即位年であると考えられている<ref>*[[山崎元一]],[[小西正捷]]編『世界歴史大系 南アジア史1(先史・古代)』p164 [[山川出版社]],2007年 ISBN 4634462087</ref><ref>辛島昇・前田専学・江島惠教ら監修『南アジアを知る事典』p207 平凡社、1992.10、ISBN 4-582-12634-0
</ref>。
 
=== サムドラグプタ ===
第2代の[[サムドラグプタ]](位335年頃 - 376年頃)は各地に軍事遠征を行い、[[ガンジス川]]上流域や中央インドの一部、[[ラージャスターン]]まで勢力を拡大し、領域内の支配体制を固めるとともに[[南インド]]にまで政治的影響を及ぼすこととなった。この時代にグプタ朝を中心とする政治秩序が確立され、グプタ朝は主に中心部を直接支配地とする一方、辺境においてはその地域の首長を支配者として認めた。
 
=== チャンドラグプタ2世 ===
[[チャンドラグプタ2世]](位376年頃 - 415年頃)のとき、北西インドの[[マールワ]]と[[グジャラート]]に在った[[西クシャトラパ]]を征服して、ついに[[北インド]]を統一し、全盛期を迎えた。また、[[デカン高原|デカン]]の[[ヴァーカータカ朝]]の王ルドラセーナ2世に娘のプラバーヴァティーグプターを嫁がせて姻戚関係を結び、南インドにおける勢力を増大させた。この時期、[[東晋]]の僧、[[法顕]]が訪れている。なお、この頃、[[ヒンドゥー教]]が台頭し、[[仏教]]文化は衰退を始めた。
 
=== 衰退 ===
第4代[[クマーラグプタ1世]](位415年頃 - 455年)の治世は、[[玄奘]]や[[義浄]]も学ぶことになる[[ナーランダ大学|ナーランダ僧院]]が設立されたことで知られるが、その治世の末期には遊牧民[[エフタル]]の侵入によって北西部の支配が動揺をはじめる。その子、[[スカンダグプタ]](位455年 - 467年)は、皇太子プルグプタに打ち勝って王位を獲得、インド北西部領域の支配につとめ、かっての栄光を一時的に回復した。
 
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==政治==
グプタ朝は県(ブクティ)、郡(ヴィシャヤ)、村落(グラーマ)とつながる地方行政機構を整備し、郡県には中央から官吏を派遣して官僚制度を整えた。この制度が整えられたのはガンジス川流域などの中央部の直轄地域に限られ、地方の有力勢力や辺境の勢力は有力者を統治者に任命してその地方の統治を任せ、貢納を受け取るといった統治スタイルがとられた。この方法でグプタ朝は速やかに勢力を拡大したものの、5世紀後半以降グプタ朝の勢力が衰えを見せると、それまでの統治で力を蓄えていた地方長官や従来の地方有力者が従属王権となり、さらには宗主権も認めなくなって独立していくこととなった。一方で、これらの従属王権は自らが力を蓄える基盤となったグプタ朝の行政システムをそのまま踏襲し、以後の各王朝に大きな影響を与えた。
 
==経済==
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==社会==
都市の商人・職人は、互助組織として「ニガマ」、「シュレーニー」といった組合を設けており、彼らが用いた印章が多く出土している。こうした組織は、都市行政にも関わっていたことが推測されている。一部の富裕化した人々は豪奢な生活を送り、文化の発展を支えることになった。農村社会ではクトゥンビンと呼ばれる小農が基盤となっていた。一方、この時代からは上記の開発政策の結果として[[バラモン]]が農村社会へと進出し、指導的立場となった。辺境の未開地にまでバラモンの居住地が拡大したことは、地方における農業の発展や政治システムの伝播につながったとされる。
 
== 文化 ==
=== 美術 ===
[[ファイル:Ajantamural.jpg|thumb|250px|right|アジャンター石窟寺院の壁画]]
グプタ朝時代に栄えた美術は、これまで[[ギリシア]]文化の影響が色濃かった[[ガンダーラ|ガンダーラ美術]]に代わり、純インド的な仏教美術として知られ、[[グプタ美術]]、または「グプタ様式」と呼ばれる。代表的なものとして、[[アジャンター石窟]]寺院の壁画や「グプタ仏」と呼ばれる多くの[[仏像]]、特に薄い衣がぴったりとはり付いて肉体の起伏を露わにする表現を好んだ[[サールナート派]]の仏像が知られる。
 
=== 文学 ===
[[サンスクリット文学]]は最盛期を迎え、二大叙事詩である『[[マハーバーラタ]]』『[[ラーマーヤナ]]』が今日の形をとるようになった。戯曲『[[シャクンタラー]]』や抒情詩『[[メーガドゥーダ]]』を著した[[カーリダーサ]]のほか、戯曲『[[ムリッチャカティカー]]』の作者[[シュードラカ]]も活躍した。[[ヴァーツヤーヤナ]]による性愛書『[[カーマスートラ]]』は、当時の上流階級の生活をうかがうことができる。説話集『[[パンチャタントラ]]』は、インドのみならず東南アジアや西アジアの説話文学に影響を与えた。言語でも、[[サンスクリット語]]の辞典『[[アマラコーシャ]]』を[[アマラシンハ]]がまとめた。『[[マヌ法典]]』も完成した。