「グプタ朝」の版間の差分

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=== サムドラグプタ ===
第2代の[[サムドラグプタ]](位335年頃 - 376年頃)は各地に軍事遠征を行い、[[ガンジス川]]上流域や中央インドの一部、[[ラージャスターン]]まで勢力を拡大し、領域内の支配体制を固めるとともに[[南インド]]にまで政治的影響を及ぼすこととなった。この時期に彫られたイラーハーバード石柱碑文には、サムドラグプタの軍事的、政治的な功績が刻まれている。この時代にグプタ朝を中心とする政治秩序が確立され、グプタ朝は主に中心部を直接支配地とする一方、辺境においてはその地域の首長を支配者として認めた。また、サムドラグプタはアシュヴァメーダ(馬祀祭)などの[[ヴェーダ]]の儀式を挙行し、バラモンを統治体制の重要な一部となした。一方で、仏教などほかの宗教に対しても寛容な姿勢で臨んだ
 
=== チャンドラグプタ2世 ===
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グプタ朝では[[金貨]]が盛んに鋳造されたほか、銀貨・銅貨も発行された。当初は[[クシャーナ朝]]の金貨にならったが、[[スカンダグプタ]]の治世からはスヴァルナと称される独自の金貨が作られた。金貨や銀貨は高い価値を持ち活発な交易を支えたが、日常生活においては銅貨や[[子安貝]]といった少額貨幣が多く用いられた。農村では、荒蕪地を中心にバラモンや宗教施設の管轄下に土地がおかれていき、低湿地や森林などの開拓が進められた。王朝の後期になると、フーナ([[エフタル]])の侵入などによって都市網が衰退し、農業経済へと移行していった。
 
==宗教==
グプタ朝は[[ヒンドゥー教]]を国家の柱として位置づけ、アシュヴァメーダ(馬祀祭)などの[[ヴェーダ]]の儀式を挙行し、バラモンを統治体制の一部に組み込んだ。村落へのバラモンの移住が始まるのもこの時代である。バラモンは農村にて租税免除などの特権を与えられ、先進技術や学問を農村に伝えるとともに農村の秩序維持の役目を果たした。また、王家は[[ヴィシュヌ]]神を特に信仰し、「至高のヴィシュヌ信者」との称号を持ち、バラモンの言葉である[[サンスクリット語]]を公用語とした<ref>辛島昇・前田専学・江島惠教ら監修『南アジアを知る事典』p207 平凡社、1992.10、ISBN 4-582-12634-0
</ref>。一方で、[[ナーランダ大学|ナーランダ僧院]]がこの時代に設立されるなど、仏教などほかの宗教が迫害されることはなく、これらも庇護を受けた。しかし、インドにおける仏教は教学研究は盛んになったものの、この時代から衰退に転じるようになった。
 
==社会==
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=== 美術 ===
[[ファイル:Ajantamural.jpg|thumb|250px|right|アジャンター石窟寺院の壁画]]
グプタ朝時代に栄えた美術は、これまで[[ギリシア]]文化の影響が色濃かった[[ガンダーラ|ガンダーラ美術]]に代わり、純インド的な仏教美術として知られ、[[グプタ美術]]、または「グプタ様式」と呼ばれる。代表的なものとして、[[アジャンター石窟]]寺院の壁画や「グプタ仏」と呼ばれる多くの[[仏像]]、特に薄い衣がぴったりとはり付いて肉体の起伏を露わにする表現を好んだ[[サールナート派]]の仏像が知られる。これらの美術の中心は帝国の首都のあるマガダ地方ではなく、マールワーやサールナートといった地方であった
 
=== 文学 ===
[[サンスクリット文学]]は最盛期を迎え、二大叙事詩である『[[マハーバーラタ]]』『[[ラーマーヤナ]]』が今日の形をとるようになった。戯曲『[[シャクンタラー]]』や抒情詩『[[メーガドゥーダ]]』を著した[[カーリダーサ]]のほか、戯曲『[[ムリッチャカティカー]]』の作者[[シュードラカ]]も活躍した。[[ヴァーツヤーヤナ]]による性愛書『[[カーマスートラ]]』は、当時の上流階級の生活をうかがうことができる。説話集『[[パンチャタントラ]]』は、インドのみならず東南アジアや西アジアの説話文学に影響を与えた。言語でも、[[サンスクリット語]]の辞典『[[アマラコーシャ]]』を[[アマラシンハ]]がまとめた。『[[マヌ法典]]』も完成した。
 
=== 科学 ===
グプタ朝時代には、特に[[天文学]]や[[数学]]、医学において大きな進歩があった。[[アリヤバータ]]は[[500年]]ごろ、グプタ朝の首都パータリプトラにおいて『アーリヤバティーヤ』(Aryabhatiya)を著し、西方からもたらされたギリシア天文学を完全にインド化するとともに、それ以後のインド天文学や数学の発展の基礎を作った。
 
== 歴代君主 ==