「カール・フレンツェル」の版間の差分

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1930年に[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス党]]に入党している(党員番号334,948)。熱心に党活動に励んだフレンゼルは党首[[アドルフ・ヒトラー]]より直々に「名誉のダガー」を授与される名誉にあずかっている。1940年1月には[[T4作戦]](障害者等の安楽死計画)に参加している。その後、[[ポーランド]]・[[ルブリン]]地区へ派遣され、同地の親衛隊・警察高級指導者である[[オディロ・グロボクニク]]の推薦で親衛隊曹長に昇進したのち、1942年4月28日からソビブル強制収容所に勤務した。
 
ソビブルでの彼は[[グスタフ・ワグナー]]に次いで残虐な看守として囚人たちから恐れられていた。駅に到着したばかりのユダヤ人を働かせる者とガス室に送る者の選別をする作業もワグナーとフレンゼルに任せられていた。1943年10月の囚人の大脱走の際にはSS看守が囚人たちに多数殺害されたが、フレンゼルは生き残っている一人である。この騒ぎでソビブル強制収容所が閉鎖されたのちはイタリアへ送られ、パルチザン狩りに従事した。
 
戦後は[[ミュンヘン]]近くの米軍の捕虜収容所に入れられていたが、1945年11月には釈放された。[[ゲッティンゲン]]の撮影スタジオで働いていたが、やがてソビブルでおこなったユダヤ人への虐殺行為が露見し、1962年に西ドイツ警察により拘留された。その後、1966年に終身刑判決を受けた。しかし健康状態が悪化したため1982年に釈放された。その後、再度終身刑判決を受けたが、やはり健康状態が悪いので執行はされなかった。晩年は[[ハノーファー]]の老人ホームで暮らし、1996年に死去した。「もう一度よく考えてみると自分は有罪だと感じる。我々は当時悪事を行ったのだから。ユダヤ人をめぐる出来事のすべてが犯罪だった。自分がそれに加担したことを私は残念に思う」と反省の弁を述べた<ref>グイド・クノップ著、高木玲訳『ヒトラーの親衛隊』(原書房)265ページ。ISBN 978-4562036776