「クラウディオ・モンテヴェルディ」の版間の差分

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モンテヴェルディは1567年に北イタリアの[[クレモナ]]に生まれた。幼少期にはクレモナ大聖堂の楽長であった[[マルカントニオ・インジェニェーリ]]の元で学ぶ。1582年と83年に最初の出版譜として[[モテット]]と宗教[[マドリガーレ]]を何曲か出している。1587年には世俗マドリガーレの最初の曲集を出版し、その直後からクレモナの外での職を探し始めた。
 
1590年に、[[マントヴァ]]の[[ヴィンチェンツォ1世・ゴンザーガ]]の宮廷にて歌手および[[ヴィオラ・ダ・ガンバ]]奏者として仕えはじめ、1602年には宮廷楽長となった。その後40歳まで主にマドリガーレの作曲に従事し、9巻の曲集を出した。それまでの[[ルネサンス音楽]][[対位法]]の伝統的な[[ポリフォニー]]の優れた作曲家として出発したが、より大きな感情の起伏を表現しようということから、新しい対位法の可能性を広げることになる。1605年に出版された第5巻(''Quinto Libro'')はモンテヴェルディと[[ジョヴァンニ・マリア・アルトゥージ]]との論争の場となったことで知られる。アルトゥージは最近の作曲様式の「粗っぽさ」や「破格」を攻撃し、特に第4巻のマドリガーレを標的とした(第5巻の「クルーダ・アマリッリ」も含まれる<ref>Fabbri, Paolo ''Monteverdi'', trans. from Italian by Tim Carter, 1985, Cambridge: Cambridge University Press. ISBN 0-52-103335-7 , p. 60. </ref>)。これに対しモンテヴェルディは第5巻の序で、音楽演奏を「[[第一作法]]」(prima pratica、第一様式、第一技法などの訳もある)、「[[第二作法]]」(seconda pratica)の2つの潮流に分けることを提案した。「第一作法」は従来の16世紀的な[[ポリフォニー]]の理想、すなわち厳格[[対位法]]に従い、[[協和音と不協和音|不協和音]]への予備を必須とし、各声部が対等であるものを指す。「第二作法」はより自由な対位法を用い、声部の中でソプラノとバスに重点がおかれる。これは中部イタリア生まれの[[モノディ]]という新しい様式への動きでもあった。第5巻のマドリガーレの多くに器楽による[[通奏低音]]が付されていることも、モンテヴェルディが自覚的に導入した新しい流行であった。また第5巻は自覚的な機能的[[調性]]の使用の始まりとも見なされている。全体として第8巻までの8巻のマドリガーレ曲集は、ルネサンスのポリフォニー音楽からバロック音楽のモノディ様式への劇的な変遷を写し取るものとなっている。作曲家の死後、1651年に出版されたマドリガーレ曲集第9巻は、恐らく生涯のさまざまな時点で作曲された曲を収録したもので、[[カンツォネッタ]]などのより軽いものも含んでいる。
 
明確な[[旋律]]線をもち、聞き取りやすい歌詞、そしてしっかりとした器楽の伴奏を伴うモノディ様式から、[[オペラ]]への道はある意味当然の歩みであった。1607年にモンテヴェルディは最初のオペラ作品『[[オルフェオ]]』(''L'Orfeo'')をマントヴァにて初演する。[[謝肉祭]]の祝祭としてマントヴァ公の命を受けての作曲であった。