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株価の暴落もいまだかつてない早さであった。結果、わずか数ヶ月で株価は元に戻り、多くの破産者・自殺者を生むことになった。科学者[[アイザック・ニュートン]]は南海会社の株で7000ポンド儲けたものの、その後の暴落で結果として20,000ポンドの損害を被っている<ref>このときニュートンは『天体の動きなら計算できるが、人々の狂気までは計算できなかった』と述べたと言われている。</ref>。その一方で、作曲家[[ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル]]は南海株の売買で得た利益を元に[[王立音楽アカデミー]]を設立、自らの音楽活動の拠点としている。
 
バブルに踊らされた投資家にも責任はあるが、南海株式会社の理事や南海株式会社の株を[[賄賂]]として受け取っていた政治家に対して投資家たちの怒りは頂点に達した。さらに当時の政権を率いていたスタンホープ伯[[ジェームズ・スタンホープ (初代スタンホープ伯)|ジェームズ・スタンホープ]]が急死して政権は崩壊、スタンホープと共に政権を担っていたサンダーランド伯[[チャールズ・スペンサー (第3代サンダーランド伯)|チャールズ・スペンサー]]は事態を解決出来ず、経済恐慌のみならず政治においても破局が訪れようとしていた。
 
== ウォルポールの登場 ==
責任追及に当たり、政府・王室要人の関与を示す決定的証拠とされる「緑の帳簿」と重要な証人である南海会社会計主任ロバート・ナイトの失踪は衝撃的であった。これらを手放すことは事件の真相を知る手がかりを失うことを意味したからである。ナイト逐電の報に議会は怒気に包まれ、ナイトの捜索が直ちに始められた。ほどなく彼はベルギーで逮捕されたが、なぜかイギリスに送還されることはなかった。ナイトが送還され証言台に立たされれば大臣のみならず王室にまで累が及ぶことは明白であり、国王とその寵妃による外交圧力が送還を防いだのだとまことしやかに噂された<ref>参考文献『今ふたたびの海』は、これを題材にしたフィクションである。</ref>。
 
こうした混乱の中、事態の収拾にあたったのが財政の専門家として名をあげていた[[ロバート・ウォルポール]]であった。[[1721年]]までにはこの南海泡沫事件の事務的な処理方針を確定させ、再び経済も回復軌道に戻った。その一方、政治責任を問われるはずの人々に対しては追及の手を緩め、この事件を煙に巻く形で終わりにさせた。事後処理と責任追及にあたって、ウォルポールは一貫して収賄者に対して寛大であり、大臣や南海会社理事たちをかばう発言を繰り返した。これは現政権が覆るとトーリー党に政権がわたると考えたためであり、彼自身の将来のためにも厳しい追及はできなかった。この手腕は当時の国王[[ジョージ1世 (イギリス王)|ジョージ1世]]の大きな信頼を得ることになった<ref>なお、この一件で処罰を求められていた人物の中には国王の愛人も含まれていた。</ref>。彼はこの後[[第一大蔵卿]]として[[1742年]]まで政権を担当し、イギリスにおける[[議院内閣制]]の基礎を築いていくこととなる。
 
==会計監査制度の誕生==