「ニコロ・ヨンメッリ」の版間の差分

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ヨンメッリは[[ナポリ]]近郊の[[アヴェルサ]]に生まれた。彼はナポリで、[[フランチェスコ・フェーオ]]、[[フランチェスコ・マンチーニ]]、[[レオナルド・レーオ]]らに音楽教育を受けた。彼の最初の[[オペラ]]、『あやまちの愛 ''L'errore amoroso''』は1737年にナポリで[[偽名]]を用いて発表され、大成功を収めた。この作品と他の初期の作品、たとえば『''Ricimero rè dei Goti''』(1740年)などによって、彼の名はイタリア中に知れ渡った。彼は最初[[ヴェネツィア]]に居住して活動し、後に[[ローマ]]に移り、その地で[[ジョヴァンニ・マルティーニ]]師と出会っている。
 
ヨンメッリはその後[[ウィーン]]を訪れるなどしたのち、1753年に[[シュトゥットガルト]]で[[ヴュルテンブルク伯カール=ユーゲン]]付きの[[カペルマイスター宮廷楽長]]の地位を得ている。この期間に彼の最大の成功と、彼の最高傑作と見なされる作品の作曲が見られる。作品の多くは、シュトゥットガルト郊外の[[ルートヴィヒスブルク]]([[w:Ludwigsburg|Ludwigsburg]])にある伯の個人劇場で上演された。[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]と彼の[[レオポルト・モーツァルト|父親]]が1763年にルートヴィヒスブルクを通りがかり、この作曲家に出会っている。ヨンメッリは1768年にナポリに戻ったが、この時期には彼の得意とする[[オペラ・セリア]]よりも[[オペラ・ブッファ]]の方が有名になっており、そのため彼の最後の作品はあまり好評ではなかった。彼は1771年に[[脳梗塞]]を発症して体の一部が麻痺するが、その後も作曲活動を続け、3年後にナポリで没した。
 
== 音楽 ==