「スコット・トゥロー」の版間の差分

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== プロフィール ==
[[アマースト大学]]を[[1970年]]に卒業後、[[1971年]]に画家アネットと結婚。[[スタンフォード大学]]クリエイティブライティングセンター(大学院)の特別研究資格を得て、[[1972年]]まで創作を学ぶ。び、[[19711975年]]に画家アネットと結婚まで[[スタンフォード大学]]で講師を務めた
 
スタンフォード大学を退職して法曹界に転身を図ることにして、[[1975年]]に[[ハーバード・ロー・スクール]] (HLS: ''[[:en:Harvard Law School|Harvard Law School]]'') に入びながら。入学前に[[1975年]]まで[[ロー・タンフォド大学]]講師を務め、法曹界を目指す。[[大学院]]で過ごした最初の1学年についてノンフィクション著作を執筆・出版する契約を出版社と締結した。その著作が、 ''One L'' (邦題『ハーヴァード・[[ロー・スクール (アメリカ合衆国)|ロー・スクール]] わが試練の一年』)であり、同書は1977年に出版された日本での法学博士号に相当する(同じではない)[[1978年]]、ハーバード・ロー・スクールを卒業し[[ジュリス・ドクター]](日本の[[1978年法務博士]]に相当)を取得して。同年、[[シカゴ]]地区連邦検察局検事補赴任採用され、[[1986年]]まで検事補をる。検事補として、州司法長官ウィリアム・スコット詐欺事件など著名な汚職事件を訴追、担当した。またシカゴで起きた法曹の賄賂や州判事の汚職で知られるオペレーショングレイロード事件 ([[:en:Operation Greylord|Operation Greylord]]) などにも積極的な助言を行なっている。
 
連邦検察局在職中に執筆した ''Presumed Innocent'' (『推定無罪』)がベストセラーとなったのを契機に、検事補を退職して作家活動を開始した。
 
2005年現在、妻・三人の子どもの家庭を持ち、シカゴ郊外に在住している。