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[[Image:Hundertwasser_nz_1998_hg.jpg|thumb|フンデルトヴァッサー、1998年に([[ニュージーランド]]にて、[[1998年]])]]
'''フリーデンスライヒ・レゲンターク・ダンケルブント・フンデルトヴァッサー'''(Friedensreich Regentag Dunkelbunt Hundertwasser、[[1928年]][[12月15日]] - [[2000年]][[2月19日]])は[[オーストリア]]の[[芸術家]]、[[画家]]、[[建築家]]。本名は'''フリードリヒ・シュトーヴァッサー'''(Friedrich Stowasser)。
[[Image:Maishima waste treatment center Osaka JPN 002.jpg|thumb|大阪市環境局舞洲工場]]
'''フリードリヒ・シュトーヴァッサー'''(Friedrich Stowasser)、より一般的には'''フリーデンスライヒ・フンデルトヴァッサー'''(Friedensreich Hundertwasser, [[1928年]][[12月15日]] - [[2000年]][[2月19日]])は[[オーストリア]]の[[芸術家]]、[[画家]]、[[建築家]]。[[シュトーヴァッサー]]家は[[シレジア]]地方([[オーストリア・シレジア]])の家系で、[[オパヴァ]]の古典文献学者[[ヨーゼフ・マーリア・シュトーヴァッサー]]([[:de:Joseph Maria Stowasser|Joseph Maria Stowasser]])も親戚である。
 
日本では「'''フンダートヴァッサー'''」「'''フンデルトワッサー'''」という呼び方も多く用いられる。日本語での号は姓を直訳した「百水」。色鮮やかな外見の建築でよく知られる。
 
== 来歴 ==
[[ウィーン]]のエルンスト(Ernst Stowasser)と[[ユダヤ系]]チェコ人の母エルゼ(Else)の家庭もとに生まれた。実家の[[シュトーヴァッサー]]家は[[シレジア]]地方([[オーストリアン・シレジア]])の家系で、[[オパヴァ]]の古典文献学者[[:de:Joseph Maria Stowasser|ヨーゼフ・マーリア・シュトーヴァッサー]]は親戚である。幼い頃、森で花を摘み、押し花にするのが好きだった少年であったフンデルトヴァッサーは、花の色をきれいなまま残したいと絵を描き始めた。しかし、10歳になったとき、その小さな幸せは踏みにじられた。[[1938年]]、[[ナチス・ドイツ]]が[[オーストリア]]を併合。[[ヒトラ]]率いる[[ナチトリア併合|併合]]ドイツ軍の支配が始まっ下に置かれた。彼の父は既に死亡しており、は[[ユダヤ]]系チェコ人であった。父は既になく、ため親子はユダヤ人街へ追いやられ、その地下室で暮し始めた。フンデルトヴァッサーは当時をこう振り返った。について「午前2時になると恐ろしい[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]の男たちが警報を鳴らし、何度もドアのところにやって来た」。フンデルトヴァッサーは誰にも見つからないよう、家の奥底に潜り込んだ。家は彼を守と語ってくれ最後の砦であった
 
[[第二次世界大争が終わり]]後、フンデルトヴァッサーは画家を志した。閉じ込められていた時間を取り戻すかのようにスケッチブックを手に旅に出た。訪れたのは北アフリカの広大な台地、彼を惹きつけたのは床も壁も赤い土で出来た伝統的な土の家であった。自然と共に暮す、そんな生き方に共感し、夢中になって自らの思いをキャンバスにぶつけた。しかし、ひとたび都市に戻ると戦後の建設ラッシュが始まっていた。新しい建物はみな角ばっていて、灰色。無機質で画一的。それは人を閉じ込める刑務所のように見えた。現代のそうした建築に違和感を覚えた彼みな病んでいる。そんな思いから生まれた作品「血を流す建物」(1952年)四角い高層建築の壁赤く染まり、傷つき血を流しているようであったな独特の建物を造り、創作活動を始める
 
そしてある時、彼の作品に渦巻きが登場する。「円に流れる血 私は自転車を持っている」(1953年)ではどこまでも果てしなく続く曲線。一方で断固拒否したのは定規で引いたような直線であった。「自然の中に唯一存在しないものが直線である。社会や文化が存在しないこの直線に基づいているとすれば、やがてすべては崩壊するだろう」。彼にとって無機質な直線に比べ、渦巻きは植物のように成長する命の象徴であった。自然への畏敬の念をこめた作品「わたしはまだわからない」(1968年)は次第に世界で高い評価を受けるようになった。
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== 作品 ==
[[Image:Maishima waste treatment center Osaka JPN 002.jpg|thumb|大阪市環境局舞洲工場]]
* [[1948年]] 母の肖像
* [[1951年]] 緑の屋根と庭のある家々
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== ギャラリー ==
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Image:Hundertwasserhaus 1.jpg|<small>[[フンデルトヴァッサー・ハウス、ウィーン]]</small>
Image:Barbarakirche baernbach.JPG|<small>聖バーバラ教会</small>
Image:District heating plant spittelau ssw crop1.png|<small>シュピッテラウ焼却場</small>
File:Furoshiki designed by Friedensreich Hundertwasser for 'Fernwärme Wien' AG.jpg|<small>風呂敷 <br/>フリーデンスライヒ・フンデルトヴァッサー</small>
</gallery>