「ロベール2世 (ノルマンディー公)」の版間の差分

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'''ロベール2世'''([[フランス語]]:'''<span lang="fr">Robert II</span>''', [[1054年]]頃 - [[1134年]][[2月10日]])は、[[ノルマンディー公国|ノルマンディー]][[ノルマンディー公|公]](在位:[[1087年]] - [[1105年]])。その身長から「短袴公(''<span lang="fr">Courteheuse</span>'')」と呼ばれる。[[イングランド王国|イングランド]][[イングランド君主一覧|王]]兼ノルマンディー公[[ウィリアム1世 (イングランド王)|ウィリアム1世]]と妃で[[フランドル伯]][[ボードゥアン5世 (フランドル伯)|ボードゥアン5世]]の娘[[マティルダ・オブ・フランダース|マティルド]]の長男。[[ウィリアム2世 (イングランド王)|ウィリアム2世]]、[[ヘンリー1世 (イングランド王)|ヘンリー1世]]の兄。
 
若いころから父に反抗し、一度は戦闘中に父を殺しかけたことがあり、何度か追放を受けた。追放中に各地を旅して、[[トスカーナ辺境伯|トスカーナ]]女伯]][[マティルデ・ディ・カノッサ|マティルデ]]に求婚したともいわれる。武人としてはまずまずだったが、性格は気まぐれで夢想的なところがあり、実務的な統治者には向いてなかったとされる。ウィリアム1世はロベールを父祖伝来の地[[ノルマンディー]]の後継者としたが、イングランドの後継者は定めなかった。
 
このため、1087年にウィリアム1世が死ぬと、いち早く次弟のウィリアムがロンドンへ駆けつけウィリアム2世(赭顔王)として即位した。以降、何度かイングランド王位をめぐってウィリアム2世と戦ったが、両者がお互いの後継者となる(生き残った方が亡くなった方の領土を継承する)ことで和解した。[[1096年]]に[[第1回十字軍]]が始まると、[[ノルマンディー公国|ノルマンディー公領]]を担保にウィリアム2世から金を借りて参加し、南イタリアのノルマン勢([[ボエモン1世 (アンティオキア公)|ボエモン]]など)と合流して聖地に向かった。
 
[[1100年]]に十字軍から帰路の途中でウィリアム2世が亡くなった知らせを受けたが、ノルマンディに戻った時には既に弟のヘンリーが王位に就いていた。このため、王位を主張してイングランドに侵攻したが、イングランド[[諸侯]]の支持を得られず、ヘンリー1世(碩学王)の王位を認めざるを得なかった。その後もイングランドの反乱者と組んでヘンリー1世と対抗したため、1105年からヘンリー1世によるノルマンディー侵攻を受け、[[1106年]]にタンシュブレーの戦いで敗れて捕らえられると、ノルマンディー公位を奪われ、生涯幽閉された。
 
== 子女 ==
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# リシャール(1079年頃 - 1099年頃)
# ギヨーム(1079年頃 - 1111年)
 
{{ノルマンディー公|1087年 - 1105年}}
 
{{DEFAULTSORT:ろへる2}}
[[Category:ノルマンディー公]]
[[Category:十字軍の人物]]
[[Category:ノルマンディー家]]
[[Category:1134年没]]