「来島恒喜」の版間の差分

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その後、[[大隈重信]]の条約改正案に反対し、玄洋社を退社。大隈を暗殺するべく、{{和暦|1889}}10月18日、[[外務省]]からの帰路にあった大隈に、彼の乗る馬車ごと爆弾を投げつけ、右足切断の重傷を負わせた。来島は爆弾が炸裂すると同時に、その場で短刀で喉を突いて自害した。享年31歳。この事件によって大隈の条約改正案は破棄された。来島の死後、後の首相となる[[広田弘毅]]の父・徳平により、墓碑が作られた<ref>[[広田弘毅]]の記事を参照。</ref>。大隈襲撃には月成功太郎(広田弘毅の岳父)も計画に加わっていたが、老母、妻子を持つ月成の身を欺いての来島の行動だった。
 
また、博多の玄洋社墓地([[崇福寺 (福岡市) |崇福寺]])にも墓があるが、[[勝海舟]]によって[[谷中霊園]]にも墓が建てられた。同墓はその後、頭山満によって建て替えられたが、当初の墓石も傍に横たえて残されている。灯篭も勝の寄贈だが、「暗夜の灯」と彫られた文字は官憲の名によって削られてしまった。
 
== 逸話 ==