「落語協会分裂騒動」の版間の差分

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== 分裂騒動以後 ==
分裂騒動後、落語協会は[[1980年]][[10月2日]]に、大量真打昇進制度に代わる新制度「真打昇進試験」を導入した。しかしある回は全員合格、ある回は過半数が不合格<!-- 「ある回は全員不合格」とあったが、全員不合格はなかったはず。不合格者を対象とした追試が行われ、追試受験者全員不合格ということはあったようですが。 -->というように基準不明瞭なものであった。
 
このような状況の下、[[1983年]]に理事・談志が試験制度の運用に異議を唱えて脱会した。この年の昇進試験は受験者10名で合格者4名<ref name="吉川p100">吉川潮、100-102ページ。</ref>で、談志門下の[[立川談四楼|立川談四樓]]、[[喜久亭寿楽|立川小談志]](後の4代目喜久亭寿楽)が不合格とされたことで、合否基準に異議を唱えた事が発端である<ref name="吉川p100" />。談志は自らを家元とする[[落語立川流]]を立ち上げ、真打・二つ目の昇進に厳格な試験制度と基準を設けるという自らの持論を実践に移した。
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圓生没後、直弟子たちが落語協会に復帰する中、5代目圓楽だけは落語協会に復帰しなかった。他の脱退者と同様に復帰の話はあったが、悩んだ末に「出戻りになる上、協会の実力者であった師匠が亡くなってしまっては戻っても冷や飯を食わされるのは確実」と復帰しない道を選んだ。一門弟子たちもこれに同調し、圓楽は1980年[[2月1日]]に一門弟子を集めて、新団体'''大日本落語すみれ会'''を設立。これはその後数回の改名を経て、'''[[円楽一門会]]'''として存続している。
 
圓生が大量真打昇進による落語の低質化を問題視して落語三遊協会を設立したが、円楽一門会では真打昇進の基準を入門から8年程度としており<ref name="吉川p84">吉川潮、84ページ。</ref><ref>これは5代目圓楽が「大学卒の落語家でも遅くとも30までには真打としてスタートするべき」と考えたための処置で、前座3年、二つ目5年を目安にしている。(5代目三遊亭圓楽、248ページ)</ref>、これは落語協会や落語芸術協会で入門から真打昇進に要する平均15年のおよそ半分である<ref name="吉川p84" />。「真打は芸道を極めた者だけが到達できる最終目標であるべきで、一生真打になれずに脱落する者が大量に出ても構わない」という圓生の信念は、円楽一門会にも引き継がれなかったと言える(5代目圓楽はもともと「売れる売れないは誰にも予想できない。いつまでも真打にさせなかったら大器晩成型の芸人が花咲かぬまま終わるかもしれないし、上が昇進しないと下がどんどんつかえてしまう」<ref>5代目三遊亭圓楽、229ページ。</ref>との考えから真打昇進については圓生と正反対の考えを持ち、むしろ小さんの立場に一定の理解を示していた)。
 
圓楽は寄席文化の復興を謳い、[[1985年]]4月に私財を投じて[[東京都]][[江東区]]に寄席[[若竹]]を開場させた。しかし弟子達が生活のためもあって余興に専念したことや採算面の問題などから、[[1989年]][[11月25日]]に開場から4年余りで閉鎖となり、圓楽は借財を負う羽目になった。若竹閉鎖後、圓楽は寄席復帰を鈴本など各方面に働きかけ続けた(圓楽は騒動前の[[1971年]]8月から鈴本演芸場で独演会を行っており、騒動で一旦は中断したが1978年10月から再開し[[1984年]]まで続いた)が、事態は動かなかった。その後圓楽は[[2005年]]10月に[[脳梗塞]]を患い、[[2007年]][[2月25日]]の高座をもって引退を表明、[[2009年]][[10月29日]]に没している。
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1980年7月、圓生の元3番弟子[[春風亭一柳]]は著書『噺の咄の話のはなし』を発表し、その中で圓生に対する痛烈な罵倒を記していたことから世間を驚かせた。しかし、その後一柳は精神を害し、翌[[1981年]][[7月9日]]に飛び降り自殺してしまった<ref name="吉川p88">吉川潮、88-89ページ。</ref>。その悲惨な死については、兄弟子の川柳をはじめ少なからぬ者が圓生との対立などの長年の心労の蓄積が引き起こしたと見ている<ref name="吉川p88" />。
 
1986年4月、同じく圓生の7番弟子[[三遊亭圓丈]]が著書『[[御乱心 落語協会分裂と、円生とその弟子たち]]』を発表、自身の置かれた視点から分裂騒動を描き分析している。そ中において、首謀者は兄弟子5代目圓楽であるとし、旧圓生一門を分裂させた分裂騒動とその後の混乱の責任は、落語三遊協会の事実上の中核となる位置を独占しながらも周囲の信頼や求心力を自ら失う様な行動を取り続けた圓楽にあると非難している
 
結局のところ、圓生は自ら引き起こした分裂騒動で、自らの一門を事実上の空中分解に追い込んでしまった。「圓生」の名跡も遺族らにより「止め名」として封印され、誰も継げなくなってしまい、現在まで圓生は空き[[名跡]]のままである。1998年からは圓生の命日にあわせて[[三遊亭圓窓]]一門と圓楽一門が共同で「六代目 圓生物語」という興行を始めるなど歩み寄りが見られたが、2001年は圓楽一門が「圓生物語」をキャンセルし、単独で二十三回忌追善興行を行ったことから、両者の関係修復は白紙に戻った。