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{{基礎情報 軍人
| 氏名 = ワシーリー・ヨシフォヴィチ・ジュガシヴィリ
| 各国語表記 = Василий Иосифович Джугашвили
| 生年月日 = [[1921年]][[3月21日]]
| 没年月日 = [[1962年]][[3月19日]](40歳没)
| 画像 =
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 渾名 = ワシーリー・スターリン<BR>ワシーリー・パヴァロヴィッチ・ヴァシリエフ
| 生誕地 =
| 死没地 = {{SSR}}<BR>[[タタールスタン共和国]]領[[カザン]]
| 所属組織 = [[ファイル:Red Army flag.svg|25px]][[ソビエト連邦軍]]
| 軍歴 = [[1940年]] - [[1953年]]<BR>カチン航空学校<BR>第16航空連隊<BR>[[モスクワ軍管区]]
| 最終階級 = 空軍中将
| 除隊後 =
| 廟 =
| 署名 =
}}
'''ワシーリー・ヨシフォヴィチ・ジュガシヴィリ'''('''{{lang-ru|Василий Иосифович Джугашвили}}''';[[1921年]][[3月21日]] - [[1962年]][[3月19日]])は、[[ソビエト連邦|ソヴィエト連邦]]の軍人。最終階級は[[空軍]][[中将]]。
ソヴィエト連邦政府の第2代国家指導者[[ヨシフ・スターリン]]の次男で、'''ワシーリー・スターリン'''と表記されることもある。[[第二次世界大戦]]で戦死した父の長男[[ヤーコフ・ジュガシヴィリ]]とは[[異母兄弟]]の関係となる。
== 経歴 ==
=== 生い立ち ===
[[1921年]][[3月21日]]、ソヴィエト連邦政府の指導者ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ([[ヨシフ・スターリン]])と、その妻[[ナジェージダ・アリルーエワ]]の子して生まれる。父からはワシカ・クラースヌイ({{Lang|rus|Васька Красный}};赤猫)という渾名で呼ばれていた。母のアリルーエワは父スターリンの後妻であった為、前妻との子である兄[[ヤーコフ・ジュガシヴィリ|ヤーコフ・ヴィッサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ]]とは腹違いの兄弟であった。
父スターリンは前妻[[:en:Ekaterina Svanidze|エカテリーナ・スワニーゼ]]以外の家族に深い愛情を注ぐ事はなく、父と疎遠であった兄ヤーコフと同じくワシーリーも冷淡な態度で扱われていた。国家指導者の息子でありながら特別扱いを受ける事もなく教育を受け、治安上の警護も付けられず路面電車で通学していた。[[1932年]][[11月8日]]、母アリルーエワが自殺した後は一層にこの傾向が深まり、ワシーリーと同母妹[[スヴェトラーナ・アリルーエワ|スヴェトラーナ]]の育児は殆ど自宅の家政婦に任されていた。
[[1938年]]、17歳のワシーリーは軍務を望んで[[クリミア]]のカチン航空学校
===
[[1940年]][[4月]]、空軍学校卒業後に空軍パイロットとしてモスクワ郊外の第16航空連隊に配属され、軍人としての経歴が始まった。先の命令にも関わらず軍内では父の威光による特別扱いを受け続け、第二次世界大戦期には人材不足であったとはいえ、異様なスピードで昇進を重ねた。[[1941年]]、[[独ソ戦]]勃発時に空軍参謀本部附属の監察飛行士であったワシーリーは同年[[12月]]には20歳の若さで空軍少佐に任官している。そればかりか数ヵ月後に更なる昇進を重ね、[[1942年]][[2月]]には21歳で空軍大佐にまで栄達している。なお、実務面では26回の出撃で撃墜2機・協同撃墜3機であった。大戦中、陸軍中尉として砲兵中隊を率いていた兄ヤーコフがヴィテプスクの戦いで捕虜となり、父に見捨てられた末に自決に追い込まれている。
[[1940年]][[4月]]、モスクワ郊外の第16航空連隊に配属。ある日、ホッケー選手の[[ウラジーミル・メニシコフ]]からガリーナを紹介され、ワシーリーは彼女に夢中になった。毎晩、花束を抱えてバイクで彼女の家に通い、彼女に見せ付けるために[[モスクワ川]]上空を飛行機で飛び回ったりした。ガリーナは情に絆され、2人は結婚した。▼
[[1946年]]、終戦後には遂に少将昇進が決定された。翌年には早くも空軍中将に格上げされ、[[モスクワ軍管区]]の空軍司令官に抜擢されている。だが一パイロットとしてはともかく司令官としては何の経験も存在しておらず、また意欲も無かった。彼は専ら得た地位を活用してスポーツを振興する事に熱意を注いだ。
=== スポーツ振興 ===
▲私生活では[[
彼の努力によって10ものスポーツ・チームが編成されたが、中でもやはり自ら[[GM]]を務めたホッケー代表チームが一番の自慢であった。1950年、ホッケー代表チームは移動中に落雷による飛行機事故で全員が死亡する災難に見舞われたが、ワシーリーは自身に責任が及ぶ事を恐れて新しいメンバーを掻き集めて取り繕ったという。その際、父にも恐る恐る報告したが、そもそもホッケーに興味が無かったスターリンは選手の顔など覚えておらず、何の反応も示さなかったという<ref>http://www.nytimes.com/2011/09/08/world/europe/08russia.html</ref>。
=== 失脚 ===
[[1952年]][[7月27日]]、トゥシノで空軍記念日を祝って[[モスクワ軍管区]]の空軍部隊による観閲飛行が行われた。責任者であるワシーリーは父に見栄を張りたいと考えてか、悪天候の中にも関わらず強引に[[B-29]]のコピー品である[[Tu-4 (航空機)|Tu-4]]爆撃機を飛行隊に参加させ、結果として1機のTu-4が墜落事故を起こした。失態に加えて観閲飛行終了後にスターリンの別荘で行われた会合にも参加せず、度重なる乱行に愛想を尽かした父と空軍によって遂に司令官を解任された。
解任から暫くして父が病没すると、後ろ盾を失いつつあったワシーリーは1953年4月28日に国家反逆罪の容疑で逮捕された。彼は「外国の通信員に会ったら全部話してやる」と息巻いていたといい、この発言が徒となって[[スパイ]]疑惑が持たれた。裁判ではこれまでの行為に対する断罪も行われ、党指導部に対する中傷、反ソヴィエト的な言動、及び軍務怠慢や汚職などの追求を受けた。調査責任者を務めた検察官[[レフ・ウラドジミンスキー]]は反逆者への無慈悲な捜査方針で知られており、拷問こそされなかったが苛烈な尋問を行い、ワシーリーは実際には無関係であった罪状まで全て「自白」している。
1953年12月、彼の庇護者であった[[ラヴレンチー・ベリヤ]]がスターリン死後の闘争に敗れて処刑される。新たに台頭したニキータ・フルシチョフはスターリン派に対する粛清を進め、ワシーリーの立場は益々悪化していった。彼はマレンコフやフルシチョフに温情ある決定を嘆願したが、聞き入れられず略式裁判で懲役8年が言い渡された。ワシーリーの身柄は連邦最高会議幹部会の指示によって警戒厳重なウラジミールスキー・ツェントラル刑務所に送られ、そこでは'''ワシーリー・パヴァロヴィッチ・ヴァシリエフ'''(Vasily Pavlovich Vasilyev)と名乗らされた。
===釈放と死===
[[1960年]][[1月11日]]
[[1962年]][[3月19日]]、カザンで急性アルコール中毒によって死去したとされるが、事実は定かではない。[[2002年]][[11月]]、モスクワのトロエクロフスコエ墓地に改葬された。▼
==引用==
<references/>
==外部リンク==
▲[[1960年]][[1月11日]]に仮釈放される。ソ連共産党中央委員会の決定により、モスクワのアパート、年金、将官待遇等が与えられた。しかし、程なくしてワシーリーは[[アルコール依存症]]となり、彼の素行はモスクワにも伝えられた。1960年[[4月9日]]、[[クレムリン]]において、[[クリメント・ヴォロシーロフ]]と会見し、アルコールを止めるように強く勧められた。[[4月15日]]、ワシーリーは治療のための入国許可を、[[中国]]大使館に要請した。折りしも[[中ソ対立]]の真っ最中であり、最高会議幹部会は彼の仮釈放の即時取消、全ての特恵と階級の剥奪を決定し、彼を[[カザン]]に追放した。
* [http://www.peoples.ru/military/general/vasiliy_stalin/ Vasiliy Stalin information] {{ru icon}}
==関連項目==
▲[[1962年]][[3月19日]]、カザンで死去。[[2002年]][[11月]]、モスクワのトロエクロフスコエ墓地に改葬された。
*[[ヨシフ・スターリン]]
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