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| 死亡日 = 363年6月26日
| 没地 = マランガ<br />(現{{IRQ}}、[[サーマッラー]]近郊)
| 配偶者1 = [[ヘレナ]]{{enlink|Helena (wife of Julian)|Helena}}
| 王朝 = [[コンスタンティヌス朝]]
| 父親 = {{仮リンク|ユリウス・コンスタンティウス|en|Julius Constantius}}
| 母親 = {{仮リンク|バシリナ|en|Basilina}}
}}
'''フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス'''(<small>[[古典ラテン語]]</small>:{{lang|la|'''Flavius Claudius Julianus'''|フラーウィウス・クラウディウス・ユーリアーヌス}}、331/332年 - 363年6月26日)は、[[ローマ帝国]]の[[ローマ皇帝一覧|皇帝]](在位:361年11月3日 - 363年6月26日)である。[[コンスタンティヌス朝]]の皇帝の1人で[[コンスタンティヌス1世]](大帝)の甥に当たる。最後の「[[異教徒]]皇帝」として知られる。[[異教]]<ref>「異教」という言葉は、あくまでもキリスト教の側から見たときの呼称であるため、今日では「多神教」などと表記する傾向が強くなっている。後藤。</ref>復興を掲げ[[キリスト教]]への優遇を改めたため、「'''背教者'''(<small>ラテン語</small>:{{lang|la|Apostata}})」とも呼ばれる。
 
== 生涯 ==
=== 誕生から副帝登用まで(331年 - 355年) ===
[[331年]]または[[332年]]<ref>331年が有力とされる。月日については不明。バワーソック、44頁。</ref>、[[コンスタンティヌス1世]]の異母弟[[ユリウス・コンスタンティウス]]{{enlink|Julius Constantius}}とその妻[[バシリナ]]{{enlink|Basilina}}の間に生まれた。コンスタンティヌスにとっては甥に当たる。337年、おそらくは皇帝[[コンスタンティウス2世]]の陰謀により家族を暗殺された。ユリアヌスとその兄[[コンスタンティウス・ガルス]]{{enlink|Constantius Gallus}}は幼少のため見逃された<ref>ガルスは当時、病で間もなく死ぬと思われていた。バウダー、104頁。</ref>。ユリアヌスは(おそらくガルスも共に)[[ビテュニア]]に住まう母方の祖母のもとに預けられ<ref>ユリアヌスに仕えた歴史家アンミアヌス・マルケリヌスは、ニコメディアで司教[[エウセビオス]]の手に委ねられたと伝えているが、ユリアヌス自身はこのようなことは述べていない。Tougher, p.14.</ref>、事実上[[軟禁]]された状態で養育された。軟禁生活では、[[キリスト教会]]の『[[聖書]]』朗読者となる一方で、かつてバシリナの家庭教師であった[[宦官]]マルドニオスによって、ギリシア・ローマの古典や[[ギリシア神話|神話]]も教えられていた。
 
おそらく[[342年]]になると、ユリアヌスとガルスは皇帝領の[[マケルム]]{{enlink|Macellum}}へ移された。マケルムでは、その名が意味する「囲い地」のとおり外部との接触は極端に制限され、ユリアヌスは兄とともに奴隷の仕事を手伝いながら6年間を過ごした。ただし、読書に関しては自由を与えられていたため、[[カッパドキアのゲオルギウス]]{{enlink|George of Laodicea|Georgius}}の蔵書を用いて勉学に励んでいた。この中には異教の古典作品も多数含まれており、ゲオルギウスの死後、ユリアヌスはその保護を依頼している。
 
[[348年]]、2人は[[コンスタンティノポリス]]に召還され、6年間の追放が終わった。ガルスが宮廷に留め置かれる一方、ユリアヌスは勉学に関しての自由が認められた。そこで、コンスタンティノポリスで[[修辞学]]を学んだのち、[[ニコメディア]]へ留学した。この地で[[ギリシア哲学|哲学者]][[リバニオス]]{{enlink|Libanius}}の講義を、間接的にではあるが受けることができ<ref>リバニオスの話を直接聞くことはコンスタンティウスに禁じられていたため、代理の者にノートを取らせていた。Tougher, p.16.</ref>、ユリアヌスは[[ネオプラトニズム|新プラトン主義]]の影響を強く受けるようになる。
 
[[351年]]、ガルスは東方の[[サーサーン朝]]の脅威に対するため、副帝としてコンスタンティウス2世に登用された。その一方で、ユリアヌスは変わらず勉学に勤しみ、[[ペルガモン]]にいた[[アエデシオス]]{{enlink|Aedesius}}や、[[エペソスのマクシムス]]{{enlink|Maximus of Ephesus|Maximus}}など、[[アナトリア半島|小アジア]]の新プラトン主義の大家のもとを訪れている。この経験から、キリスト教の優越性を声高に叫ぶ信徒や伯父たちのキリスト教庇護に疑問を感ずるようになり、異教への回心が決定的となった。ユリアヌス本人も、自身の回心は351年に始まったとしている。副帝即位直前の夏には、アエデシオスの弟子プリスクスを訪ねて[[アテナイ]]に赴いている。
 
[[354年]]、副帝であったガルスがコンスタンティウス2世に処刑された<ref>ガルスの統治が評価しがたいものであったことはユリアヌスも認めており、処刑はともかく副帝解任には正当性があった。バワーソック、62頁。</ref>。さらに皇帝はユリアヌスに反抗の疑いをけ、メディオラヌム(現[[ミラノ]])の宮廷に呼び出した。ユリアヌスはそままコンスタンティウスの監視下に置かれたが、皇妃[[エウセビア]]{{enlink|Eusebia (empress)|Eusebia}}が唯一の擁護者として皇帝に働きかけたため、約半年後に疑いが晴れ、解放された。
 
メディオラヌムを離れたのちは、ビテュニアの邸宅に寄り、そこからすぐにギリシアへと発った。アテナイにて「異教徒」たちに交じりながら、キリスト教徒の修辞学者[[プロハイレシオス]]から手ほどきを受けていた。だが、間もなくコンスタンティウスに召還され、再びメディオラヌムの宮廷に向かうことになる<ref>Tougher, p.18.</ref>。
 
[[355年]]後半、コンスタンティウスは東方のペルシアだけでなく[[ガリア]]での問題にも直面していた<ref>バワーソック、61頁。</ref>。このガリア側の問題を解決するため、ユリアヌスにはガルスにわる皇帝権力のパートナーとしての役割が求められるようになった。こうした背景から355年11月5日、メディオラヌムにてユリアヌスは副帝に任じられる。この登用は、以前に監視から解放されたとき同様、エウセビアの進言によるところが大きかった<ref>バワーソック、62頁。</ref>。
 
=== ガリア赴任(355年 - 360年) ===
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=== 正帝への登極(360年 - 361年) ===
[[ファイル:Constantius II - solidus - antioch RIC viii 025.jpg|thumb|250px|right|コンスタンティウス2世の肖像が刻まれた[[ソリドゥス金貨]]]]
[[360年]]初頭、ユリアヌスの平穏は一変する。コンスタンティウスが、ガリアから東方国境に援軍を送るように命じたからである。要求された人員は、ユリアヌスが指揮する全軍の半数近くに及んだ<ref>バワーソック、84頁。</ref>。この指示を出すようコンスタンティウスに促したのが宮廷内の反ユリアヌス派であった可能性はあるが、当時の情勢を鑑みれば、安定した西方から緊張の高まっている東方へ戦力を移すというのは自然な流れでもあった。359年に北[[メソポタミア]]の要衝アミダ(現[[ディヤルバクル]])を破壊するなど、ペルシア軍が攻勢に出ていたためである<ref>倉橋、304頁。</ref>。
 
しかしユリアヌス側からすれば、この命令は苦渋の決断を迫られるものだった。対象となる兵士の多くがガリア出身で、故郷を離れることを望んではおらず、ユリアヌスも彼らにアルプス山脈を越えることはないと以前に宣言していた<ref>Ammianus, 20.4.4, Vol.2, p.19.</ref>からである。結局、コンスタンティウスの命令どおり援軍を送るべく、兵を一旦ルテティア(現[[パリ]])に集結させた。だが、彼らが派遣されることはなかった。兵士たちはユリアヌスを囲み、歓呼をもって[[アウグストゥス (称号)|皇帝]](正帝)に推戴したのであった。
 
ペルシアとの戦いに注力せざるを得なかったコンスタンティウスは、警告を与えるのみで、ただちにはユリアヌスを反逆者として処断しようとはしなかった。ユリアヌスのほうも、コンスタンティウスに対する書簡では「副帝」を自称していた。しかし、ユリアヌスのガリア滞在5周年を記念した祝祭に合わせて当地で発行された貨幣には、両者はどちらも皇帝と刻まれており、実際にはユリアヌスは皇帝(正帝)として振る舞っていた<ref>バワーソック、94頁。</ref>。
 
アラマンニ族の王<ref>ユリアヌスを攻撃するように記された書簡を、コンスタンティウスから受け取っていたとされる。バワーソック、97-98頁。</ref>を捕らえ、ガリアでの軍事行動に区切りをつけたユリアヌスは、信頼するサルスティウス{{enlink|Sallustius}}にガリアを任せ、[[361年]]夏、コンスタンティウスとの対決に向け、進軍を開始した<ref>バワーソック、99頁。</ref>。行軍速度は非常に速く、10月には[[シルミウム]](現セルムスカ・ミトロヴィナ)に到着した。この町では、のちに文人仲間となる歴史家の[[アウレリウス・ウィクトル]]{{enlink|Aurelius Victor}}と面会している<ref>バワーソック、101頁。</ref>。同月末にはナイスス(現[[ニシュ]])に到った。ユリアヌスをこれ以上放置できなくなったコンスタンティウスは、ペルシアとの戦いを中断し、西へと向かう。しかし361年[[11月3日]]、西進する道中に[[キリキア]]地方で突然の死を迎えた<ref>バワーソック、103頁。</ref>。ユリアヌスは同月末、ナイススでその報告を受け取った。
 
[[12月11日]]、ユリアヌスは唯一の皇帝としてコンスタンティノポリスに入城する<ref>Tougher, p.44.</ref>。時を置かずコンスタンティウスの葬儀を執り行い、この皇帝に対し深い尊敬の念を表した。コンスタンティウスに忠誠を誓っていた東方の兵士を抑えるためにも、簒奪者ではなく、正当な後継者として皇帝に即位したことを示す必要があった<ref>バワーソック、109頁。</ref>。実際に遺言があったかは不明だが、コンスタンティウスが死の間際にユリアヌスを後継者に認めたという噂が、葬儀ののちに流れた<ref>バワーソック、110頁。</ref>。
 
=== 皇帝としての改革(361年 - 362年) ===
[[ファイル:Solidus Julian.jpg|thumb|250px|right|ユリアヌスの肖像が刻まれたソリドゥス金貨]]
==== 政治上の改革 ====
コンスタンティウスの葬儀が終わると、翌年初頭にかけて、先帝に従属していた不正を行う者たちを裁く法廷がカルケドンで開かれた。ユリアヌス自身はその法廷には立たず、「異教徒」で[[オリエンス道長官]]{{enlink|Praetorian prefecture of the East|praefectura praetorio Orientis}}の[[サルティウス・セクンドゥス]]{{enlink|Salutius Secundus}}を代理人に選んだ<ref>バワーソック、111-112頁。</ref>。この裁判の判事はサルティウス以外に5人いたが、そのうち4人は現職か前職の武官であり、新しい皇帝の権力の源泉としての軍の支持を取り付ける意味が大きかった<ref>Tougher, p.45.</ref>。そのためユリアヌスは臨席せず、不公平な判決を黙認したと考えられている<ref>バワーソック、111頁。</ref>。
 
カルケドンで裁判が開かれる中、ユリアヌスはコンスタンティノポリスで宮廷の改革に取り組んだ。[[ディオクレティアヌス]]以降の帝政後期においては、宮廷ではペルシアをモデルとした新たな様式が導入され、その機能が肥大化していた<ref>バワーソック、118-119頁。</ref>。禁欲的な新たな皇帝はこれを一挙に縮減した。キリスト教徒の官僚や教会史家の中には、この改革の目的がキリスト教徒の放逐にあると考えるものもいたが、実際にはそうではなかった。宮廷の人員の多くはたしかにキリスト教徒であったが、ユリアヌスはその数を削減するのみで「異教徒」と入れ替えることはしなかったからである<ref>バワーソック、119頁。</ref>。
 
宮廷・官僚組織の規模を縮小する一方で、[[元老院 (ローマ)|元老院]]の権威を復興させようという努力もした<ref>バワーソック、120頁。</ref>。宮廷の外においては、都市の再編にも着手した。副帝即位以前に様々な都市に遊学した経験から、各都市の財政負担を減らし、参事会の持つ権限を強化しようと考えた。ユリアヌスにとっての都市(特に帝国東半の)とは、ギリシア文化の伝統を継承する存在であり、[[ヘレニズム]]との調和が必要だと信じていた<ref>Tougher, p.49.</ref>。
 
つまり、彼ユリアヌスの改革の目的は、かつての伝統に回帰することであった。「異教」が中心となる世界を目指していたのである<ref>バワーソック、117-118頁。</ref>。そのために、市民の皇帝というイメージを再構築しようと試みた。ガリア時代でもそうであったように、ユリアヌスの描く皇帝像はシンプルなものであり、威張らず、豪奢にせず、市民と身近な存在であった。ユリアヌスの心の内にあったモデルは、『ミソポゴン』や『皇帝饗宴』の記述から、[[マルクス・アウレリウス・アントニヌス]]だったとされている<ref>Tougher, pp.47-48.</ref>。これについては、リバニオスも同様の説明をしている<ref>Libanius, ''Funeral Oration for Julian'', 11 (Tougher, p.117).</ref>。
 
==== 宗教面の改革 ====
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==== 改革への反発と対立 ====
急激に進められた体制の変革は様々な抵抗に遭い、思うような効果は上げられなかった。ペルシア遠征前に滞在した[[アンティオキア]]での、市民の反応が象徴的である。ユリアヌスは362年7月にこの町に入城していたが、この年は[[旱魃]]に見舞われていた<ref>バワーソック、152頁。</ref>。これへの対応として周辺地域から食糧を供給したが、市内の流通の監督を怠ったために不正が広がり、これを契機に市民との関係が悪化した<ref>バワーソック、156-160頁。</ref>。『[[ミソポゴン]]{{enlink|Misopogon}}』が書かれたのはこのときである。
 
ユリアヌスとアンティオキア市民の対立には、皇帝の強すぎる禁欲主義に対する市民の反発など、これ以外にも様々な理由がある。だが、その中のひとつにユリアヌスの描く皇帝像に対する反発は確かにあった<ref>Tougher, p.52.</ref>。これは、コンスタンティウス2世のような皇帝のあり方を望ましいと感じている人々がいた、ということでもある。
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サーサーン朝の[[シャープール2世]]は、ディオクレティアヌス以来の均衡状態をおよそ40年ぶりに破り、かつての[[アケメネス朝]]の領土の返還を迫ってローマ帝国と戦端を開いた。ローマ側はこれを防いでいたが、361年末にコンスタンティウスは東方国境から撤退してしまった。したがって、ユリアヌスが皇帝となったとき、コンスタンティウスの治世に持ち上がった懸案は解決しておらず、ローマの東方国境は再びサーサーン朝の攻勢に晒されていた。
 
363年3月5日、ユリアヌスは8万から9万の兵を率いてアンティオキアを発った<ref>バワーソック、174頁。</ref>。この遠征には兵士だけでなく、コンスタンティヌスの時代にローマ帝国に亡命していた、シャープールの弟[[ホルミズド]]{{enlink|Hormizd (Constantinople)|Hormizd}}を伴っていた。まずは[[アルメニア王国|アルメニア]]王アルサケスに食糧と援軍を提供するように指示を出し、ヒエラポリス(現[[マンビジ]])にて補給態勢の確認を行ったのち、[[ユーフラテス川]]を渡ってメソポタミアに入った<ref>バワーソック、175頁。</ref>。メソポタミアのカルラエ(現[[ハッラーン]])では、プロコピウス{{enlink|Procopius (usurper)|Procopius}}とセバスティアヌスに3万の兵を預け、アルメニアの援軍と合流してメディアを征服するように命じた<ref>Ammianus, 23.3.5, Vol.2, p.323. ただしこの「メディア」とはアッシリアの範囲内のことのようである。''ibid''., p.322, 脚註3。</ref>。
 
ユリアヌス率いる本隊はユーフラテス川沿いのカリニクム(現[[ラッカ]])に向かい、遠征のために編成された艦隊と合流した。艦隊は約千艘の船からなり、食糧・武器・攻城兵器が積まれていた。中には浮橋用の平底舟もあった。カリニクムを発ったのちはキルケシウム{{enlink|Circesium}}(現ブセイラ)にて[[ハブール川]]を渡り、そのままユーフラテス川を下った。アンミアヌスの記録には、途中経由(陥落・占領・焼き討ち)した都市として、[[ドゥラ・エウロポス]]、[[アナタ]]{{enlink|Anah|Anatha}}、ティルタ、アカイアカラ、バラクスマルカ、ディアキラ、オゾガルダナ、マケプラクタの名前が出ている<ref>Ammianus, 24.1.5-2.6, Vol.2, pp.403-411.</ref>。このうちオゾガルダナには、[[トラヤヌス]]の[[パルティア]]遠征時に建てられた裁判所の遺構が残されていた。
 
その後は[[ピリサボラ]]{{enlink|Anbar (town)|Anbar}}を陥落させ、運河ナハルマルカに到達した<ref>Ammianus, 24.6.1, Vol.2, p.457.</ref>。トラヤヌスが船を運んだ経路が残っていたため、ユリアヌスはこれを開き、ユーフラテス川からティグリス川へと船を移した<ref>バワーソックは、水がティグリス川に流れるように造られた運河としているが、Bennettは、トラヤヌスは陸上に装置を設けて船を運んだとしている。バワーソック、182頁。Bennett, p.199.</ref>。こうしてユリアヌスはクテシフォンの間近に迫り、その城外での戦闘にも勝利したが、好機を逸したために占領に失敗した<ref>バワーソック、183頁。</ref>。ティグリス川から南下してくるはずの援軍は到着せず、シャープールの軍も接近しつつあり、情勢は芳しくなかった。クテシフォン近郊に留まることを断念したユリアヌスは、艦隊を焼き、撤退に移った<ref>バワーソック、183-185頁。</ref>。プロコピウスとセバスティアヌスの部隊を目指してティグリス沿いに北上したが、[[6月26日]]、敵襲に対して指揮をとっている際に投槍を受け、陣中で没した<ref>バワーソック、185-186頁。</ref>。死に際して「[[ガリラヤ]]人よ、汝は勝てり」との言葉を遺したという伝承がある。
 
[[ファイル:Roman-Persian Frontier, 5th century.png|thumb|250px|right|4世紀末のローマ帝国東方の領域<br>([[384年]]のテオドシウスによる分割後)]]
撤退中の陣中で選ばれた新たな皇帝[[ヨウィアヌス]]は、退路の安全を確保するため、以下のように大幅に譲歩した条件でシャープールと講和した<ref>Blockley, p.27.</ref>。
* サーサーン朝は、[[アルザネネ]]{{enlink|Aghdznik|Arzanene}}、[[モクソエネ]]{{enlink|Moxoene}}、[[ザブディケネ]]、[[レヒメネ]]、[[コルドゥエネ]]{{enlink|Corduene}}の5つのトランスティグリタニア地方を15の砦とともに得る
* サーサーン朝は、[[ニシビス]]{{enlink|Nusaybin|Nisibis}}、[[シンガラ]]{{enlink|Singara}}、[[カストラ・マウロルム]]を得る
* ローマ帝国は、ニシビスとシンガラから、軍と住民を退去させてよい
* ローマ帝国は、今後一切、アルサケスを助けサーサーン朝に対抗しない
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** 夏(9月9日以前) - 一家暗殺される。ビテュニアの祖母に引き取られる
* 338/339年 - マルドニオス、ユリアヌスの家庭教師となる
* 342年頃 - ユリアヌスとガルス、マケルムに勾留される
* 348年 - ユリアヌスとガルス、コンスタンティノポリスに召還される
* 同年末/349年 - ニコメディアに留学
* 351年5月 - ガルス、副帝に即位
* 354年 - ガルス、処刑される。メディオラヌムの宮廷に召還、拘束される
* 355年
** 夏 - アテナイに遊学
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== 参考文献 ==
* [[エドワード・ギボン]]『[[ローマ帝国衰亡史]]3  コンスタンティヌスとユリアヌス』  中野好夫訳、[[筑摩書房]]〈[[ちくま学芸文庫]]〉、1996年、ISBN 9784480082633。
* 倉橋良伸「後期ローマ帝国とササン朝ペルシア」倉橋良伸ほか編『躍動する古代ローマ世界  支配と解放運動をめぐって』  理想社、2002年、ISBN 9784650902167。
* [[後藤篤子]]「ローマ帝国における『異教』とキリスト教」[[歴史学研究会]]編『古代地中海世界の統一と変容』  [[青木書店]]〈地中海世界史〉、2000年、ISBN 9784250200083。
* クリス・スカー『ローマ皇帝歴代誌』  [[青柳正規]]監修、月村澄枝訳、[[創元社]]、1998年、ISBN 9784422215112。
* ダイアナ・バウダー編『古代ローマ人名事典』  小田謙儞ほか訳、[[原書房]]、1994年、ISBN 9784562026050。
* G・W・バワーソック『背教者ユリアヌス』  新田一郎訳、思索社、1986年、ISBN 9784783511182。
* [[秀村欣二]]「ギリシア・ローマ史」『秀村欣二選集』  第4巻、キリスト教図書出版社、2006。
* ''Ammianus Marcellinus with an English Translation by John. C. Rolfe'', The Loeb Classical Library, Revised edition, Vol.1-3, London, 1950-52, ISBN 9780674993310.
* Julian Bennet, ''Trajan, Optimus Princeps: A Life and Times'', Bloomington and Indianapolis: Indiana University Press, 1997, ISBN 9780415165242.
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== ユリアヌスを描いた文学作品 ==
* [[塩野七生]]『キリストの勝利 [[ローマ人の物語]]XIV』  [[新潮社]]、2005年、ISBN 9784103096238。
* [[辻邦生]]『[[背教者ユリアヌス]]』  [[中央公論新社]]〈[[中公文庫]]〉、全3巻、1974-751975年。
* ドミートリイ・メレシコーフスキイ『背教者ユリアヌス  神々の死』  新版、[[米川正夫]]訳、[[河出書房新社]]、1986年。
 
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