「空手道」の版間の差分

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== 名称の変遷 ==
=== 手、唐手、空手 ===
空手は、もともと[[明治]]初頭の頃の沖縄では、[[手 (沖縄武術)|手]](て、[[琉球方言]]でティー)もしくは[[唐手]](とうで、琉球語でトーディー)と呼ばれていた([[花城長茂]]説)<ref>「本社主催・空手座談会(二)」『琉球新報』1936年10月28日。</ref>。[[摩文仁賢和]]によれば、「手」とは主に琉球固有の拳法を指し、唐手とは中国から伝来した拳法を指していたという<ref>摩文仁賢和・仲宗根源和『攻防拳法空手道入門』43頁参照。</ref>。しかし、{{和暦|[[1901}}年]](明治34年)に空手が沖縄県で学校の体育科に採用された頃から、唐手表記のまま、読み方が「トーディー」から「からて」へ改められ、意味も「手」も含めた琉球拳法一般を指すようになった。それゆえ、唐手(トーディー)と唐手(からて)は、言葉の意味する範囲が違うことに注意する必要がある。
 
「空手」の表記がいつから始まったかについては諸説がある。18世紀に編纂された正史『[[球陽]]』に、[[京阿波根実基]]が「空手」の使い手であったことが記されているが、この「空手」が今日の空手の直接の源流武術であったのかは、史料が乏しいため判然としない。[[船越義珍]]によれば、もともと「沖縄には『から手』という呼び方があったことは事実である」とされ、しかしそれが「唐手」なのか「空手」なのかは不明であるという<ref>船越義珍『愛蔵版 空手道一路』榕樹書林、2004年、98頁参照。</ref>。つまり、琉球王国時代から空手という表記が存在した可能性は考えられるが、これを史料から追跡するのは困難なのが現状である。
 
今日知られている廃藩置県以降での空手表記の初出は、{{和暦|[[1905}}年]](明治38年)に花城長茂が'''空手空拳'''の意味で使い始めたものである。次に大正年間の船越義珍の著作<ref>富名腰義珍『琉球拳法唐手』武侠社、1922年、2頁。</ref>や[[本部朝基]]の著作<ref>本部朝基『沖縄拳法唐手術組手編』唐手術普及会、1926年、4頁。</ref>に断片的に「空手」の文字が使用されている。そして、{{和暦|[[1929}}年]](昭和4年)に[[慶應義塾大学]]唐手研究会(師範・[[船越義珍]])が[[般若心経]]の[[空 (仏教)|'''空''']]の概念を参考にしてこれを用い、その後この表記が東京を中心に広まった。
 
{{和暦|[[1936}}10年]](昭和11年)10月25日、[[那覇市|那覇]]で「空手大家の座談会」([[琉球新報]]主催)が開かれ、この時、唐手を空手に改めることが決まった。1960年代までは唐手表記も珍しくなかったが、現在では空手の表記が一般化し定着している。また、1970年代からは、主に[[フルコンタクト空手]]の流派において、カラテやKARATEと表記されることも多い。
 
=== 「道」の付加 ===
空手(唐手)に「道」を付加して、空手道(唐手道)の表記がいつ始まったのかについても諸説がある。船越義珍によると、唐手の表記はしばしば[[中国拳法]]と誤解されたので、慶応大学唐手研究会の同門諸君と相談して「大日本拳法空手道」に改めたとされる<ref>船越義珍『愛蔵版 空手道一路』榕樹書林、2004年、99頁参照。</ref>。時期は慶応大学空手部の当時の記録によれば、{{和暦|[[1929}}年]](昭和4年)もしくは{{和暦|[[1930}}年]](昭和5年)であったという<ref>『創立十周年記念・空手道集成第一巻』慶応義塾体育会空手部、1936年、7、25頁参照。</ref>。
 
改称理由について、沖縄唐手は大学において「科学的に解剖され分析され研究され批判された」<ref>『創立十周年記念・空手道集成第一巻』慶応義塾体育会空手部、1936年、25頁参照。</ref>結果、一度解体される必要性が生じたため、新しく日本精神に基づいて日本の武道として再組織されて「空手道」に改められたとしている<ref>『創立十周年記念・空手道集成第一巻』慶応義塾体育会空手部、1936年、4、25頁参照。</ref>。
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==== 禁武政策の虚実 ====
[[ファイル:Gasha_Uekata.jpg|210px|thumb|伝我謝盛保筆『我謝親方弓射図』(19世紀初期)。剣術、槍術、弓術は琉球貴族のたしなみであった。禁武政策と空手発展の因果関係は、近年、疑問視されることが多い。]]
[[琉球]]の[[沖縄本島]]で空手が発展した理由として、従来言及されてきたのが、二度にわたって実施されたという'''禁武政策'''である。一度目は[[尚真王]](在位[[1476年]] - [[1526年]])の時代に実施されたというもので、このとき、国中の武器が集められて王府で厳重に管理されるようになった。二度目は{{和暦|[[1609}}年]](慶長14年)の[[薩摩藩]]による琉球侵攻後に実施されたという禁武政策である。二度の禁武政策を通じて、武器を取り上げられた人々が、薩摩藩に対抗するために空手を発展させたとする説が、従来、歴史的事実であるかのように繰り返し言及されてきた。
 
しかし、禁武政策と空手発展の因果関係については、近年、これを疑問視する研究者が少なくない。例えば、尚真王の禁武政策とされるものについては、従来「百浦添欄干之銘」([[1509年]])にある「もっぱら刀剣・弓矢を積み、もって護国の利器となす」という文言を、「武器をかき集めて倉庫に封印した」と解釈してきたが、近年では沖縄学の研究者から「刀や弓を集めて国の武器とした」と解釈するのが正しいとの指摘がなされている<ref>上里隆史『目からウロコの琉球・沖縄史』ボーダーインク、2007年、64頁参照。</ref>。
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最近の研究によれば、最初に本土へ[[唐手]]を紹介したのは、明治時代に東京の尚[[侯爵]]邸に詰めていた琉球士族たちであったと言われている<ref>藤原稜三『格闘技の歴史』657頁参照。</ref>。彼らは他の藩邸に招かれて唐手を披露したり、[[揚心流]]や[[起倒流]]などの[[柔術]]の町道場に出向いて、突きや蹴りの使い方を教授していた。
 
また、{{和暦|[[1908}}年]](明治41年)、沖縄県立中学校の生徒が京都[[武徳会]]青年大会において、武徳会の希望により唐手の型を披露としたとの記録があり、このとき「[[嘉納治五郎|嘉納博士]]も片唾を呑んで注視してゐた」<ref>『球陽』第18号、1909年、沖縄県公文書館所蔵。高宮城繁・仲本政博・新里勝彦『沖縄空手古武道事典』柏書房、2008年、736頁参照。</ref>というように、本土武道家の中にはすでにこの頃から唐手の存在に注目していた。
 
しかし、唐手の本格的な指導は、富名腰義珍(後の[[船越義珍]])や[[本部朝基]]らが本土へ渡った[[大正]]以降である。{{和暦|[[1922}}5年]](大正11年)5月、[[文部省]]主催の第一回体育展覧会において、富名腰は唐手の型や組手の写真を二幅の掛け軸にまとめてパネル展示を行った<ref>船越義珍『愛蔵版 空手道一路』149頁参照。</ref>。この展示がきっかけで、翌6月、富名腰は嘉納治五郎に招待され、[[講道館]]で嘉納治五郎をはじめ200名を超える柔道有段者を前にして、唐手の演武と解説を行った。富名腰はそのまま東京に留まり、唐手の指導に当たることになった。([[船越義珍#本土時代]]も参照。)
 
同じ頃、関西では[[本部朝基]]が唐手の実力を世人に示して、世間を驚嘆させた。同年11月、たまたま遊びに出かけていた京都で、本部は[[ボクシング]]対柔道の興行試合に飛び入りで参戦し、相手のロシア人ボクサーを一撃のもとに倒した。当時52歳であった。この出来事が国民的雑誌『[[キング (雑誌)|キング]]』等で取り上げられたことで、本部朝基の武名は一躍天下に轟くことになり、それまで一部の武道家や好事家のみに知られていた唐手の名が、一躍全国に知られるようになったと言われている<ref name="meijinden">長嶺将真『沖縄の空手・角力名人伝』新人物往来社、昭和61年、144頁参照。</ref>。本部は同年から大阪で唐手の指導を始めた。富名腰や本部の活動に刺激されて、日本本土では大正末期から昭和にかけて大学で唐手研究会の創設が相次いだ。
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=== 戦後(沖縄) ===
==== 統一組織の誕生 ====
戦後の沖縄では、戦争の爪痕も深く、県下の各流派・道場は個別に活動しており統一組織は存在していなかったが、まず{{和暦|[[1956}}年]](昭和31年)、[[上地流]]、[[剛柔流]]、[[小林流]]、[[松林流]]の4流派によって沖縄空手道連盟(会長・[[知花朝信]]、沖空連)が結成された。その5年後の{{和暦|[[1961}}年]](昭和36年)、比嘉清徳(当時本部流、現・神道流)、島袋龍夫(一心流)、[[上原清吉]](本部流、現・本部御殿手)、[[祖堅方範]](現・少林流松村正統)、兼島信助(渡山流)、[[中村茂]](沖縄拳法)、島袋善良(少林流聖武館)等、古武道系諸団体を中心に沖縄古武道協会(会長・比嘉清徳、古武道協)が結成された。
 
{{和暦|[[1963}}年]](昭和38年)、沖空連から知花朝信一派が脱退、その4年後の{{和暦|[[1967}}年]](昭和42年)に沖空連は解消され、全沖縄空手道連盟(会長・[[長嶺将真]]、全沖空連)が新たに結成された。古武道協も、{{和暦|[[1967}}年]](昭和42年)、新たに全沖縄空手古武道連合会(会長・比嘉清徳)へと再結成がなされた。
 
==== 国体参加問題 ====
{{和暦|[[1981}}年]](昭和56年)、沖縄空手界では、国体への参加問題と、これに伴う[[全日本空手道連盟]](全空連)への加盟問題がこじれて大問題に発展した。全空連は、沖縄県体育協会(会長・大里喜誠)傘下の全沖空連に対して、沖縄側の加盟にあたって審査資格を八木明徳(剛柔流)、比嘉佑直(少林流)、上地完英(上地流)の長老三氏にのみ認め、ほかは本土側の審査を受けると通告したため、沖縄側が本土の支配下に置かれるとして反発した。しかし、[[海邦国体]]を間近に控え、業を煮やした沖縄県体育協会はついに、全沖空連を「不適当団体」として脱会処分にし、代わりに剛柔流(宮里栄一)、小林流(宮平勝哉、比嘉佑直)、松林流(長嶺将真)、本部御殿手(上原清吉)等によって結成された沖縄県空手道連盟(県空連、会長・長嶺将真)の入会を認めた<ref>『創立十周年・記念誌』沖縄県空手道連盟、1991年、19頁参照。</ref>。
 
全空連加盟を容認する県空連に対して、全沖空連側は「沖縄伝統の空手が日本空手道連盟の支配下に置かれることは納得できない」と強い不満を表明したが、県空連側も「全空連の内部にとび込んで、沖縄空手の向上を図るべき」(長嶺将真)として両者の主張は平行線をたどった<ref>『創立十周年・記念誌』沖縄県空手道連盟、1991年、16頁参照。</ref>。
 
==== 揺れる沖縄空手 ====
{{和暦|[[1982}}年]](昭和57年)、くにびき国体([[島根県]])の予選も兼ねた県空連主催の第一回空手道選手権大会が開催された。そして、{{和暦|[[1987}}年]](昭和62年)、沖縄県で海邦国体が開催され、沖縄勢は型で全種目優勝を果たすなど空手道競技9種目中5種目を制覇して、本場の面目を保った。
 
しかし、当初全空連に加盟して内部から改革すると意気込んでいた県空連の改革姿勢も、本土側によって無視され不発に終わった。特に国体における指定型は、当初全空連(江里口栄一専務理事)は首里系4つ、那覇系4つの「名称のみの指定である」と沖縄側へ説明していたが、実際は本土四大流派の型であり、同一名称でも沖縄の型で試合に出ることはできなかった。この事実を知らされショックを受けた県空連は全空連に要望書を提出したが、沖縄に型の権威を奪われることを警戒する本土側によって黙殺された<ref>長嶺将真「国体における空手道型の指定について」『創立十周年・記念誌』沖縄県空手道連盟、1991年、188頁参照。</ref>。