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[[ファイル:The Horse in Motion.jpg|right|250px|thumb|疾走中の馬の連続写真]]
[[ファイル:Muybridge race horse animated 184px.gif|thumb|right|200px|上記連続写真をアニメーションにしたもの]]
'''エドワード・J・マイブリッジ'''(Eadweard J. Muybridge、[[1830年]][[4月9日]] - [[1904年]][[5月8日]])は、[[イギリス]]出身の[[写真家]]。本名は'''エドワード・ジェームズ・マガーリッジ'''(Edward James Muggeridge)。
[[イングランド]]の[[キングストン|キングストン・アポン・テムズ]]で生まれる。[[1855年]]に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に移住し、[[サンフランシスコ]]で出版業界に身を置くようになる。
== [[高速度撮影]] ==
[[1872年]]、元カリフォルニア州知事[[リーランド・スタンフォード]]は、当時一般に議論されていた、[[ギャロップ]]する馬の脚運びについて、4本全ての脚が地面から離れる瞬間があるという立場をとっていた。彼は友人との間でこれについて賭けをしており、最高で25,000ドルの勝負であったという話もあるが、確たる証拠はない。
スタンフォードはマイブリッジに2,000ドルで写真の撮影を依頼した。
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彼は写真感度向上のための化学研究を行い、電気技師のジョン・D・アイザクスと協力して写真装置を制作、結局5年と5,000ドルを費やし、[[1877年]]の[[7月1日]]に一枚の写真を撮影、議論に決着をつけた。
== 連続写真 ==
さらに翌年の[[1878年]][[6月15日]]にはこの装置を等間隔に12台並べ、疾走する馬の連続撮影を成功させた。
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レンズはダルメイヤー製、[[焦点距離]]90ミリ、レンズ口径32ミリが用いられた。
この馬の撮影はそれまでヨーロッパの絵画表現において支配的であった、前足は前方に、後ろ足は後方にそれぞれ伸ばして走るというのが事実とは異なっていることを示しただけでなく、得られた連続写真を用いて動的錯覚をもたらしたことで、衝撃を与え、喝采を浴びた。
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この連続写真を見た[[トーマス・エジソン]]は大いに触発され、後に映写機[[キネトスコープ]]を発明することになる。これが[[シネマトグラフ]]につながり、[[映画]]が誕生することになる。
== 殺人事件 ==
スタンフォードの依頼から成果を挙げるまでの5年という期間は、技術的課題への取り組みのみならず、殺人事件によっても費やされた。
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この一件は108年後の[[1982年]]、作曲家[[フィリップ・グラス]]によって「写真家」という室内オペラにされた。
== 発見をめぐる裁判 ==
[[1882年]]に出版された本をめぐって争いが生じた。
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マイブリッジは名誉棄損でスタンフォードを訴えたが、マイブリッジが自分の功績を強調し、馬が走るときに4本の脚が全て地面から離れるということも自分が最初に言い出したことであるとまで主張したため、裁判所は訴えを退けた。
== その後の業績 ==
裁判所が訴えを却下する頃には、マイブリッジは既に別の後援を得ていた。
[[ペンシルベニア大学]]からの支援で2年間に渡り研究を行い、750種類、10,000枚に及ぶ写真を残した。
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彼は[[1894年]]にイングランドに戻り、自身の仕事に関する2冊の通俗書を出版した。
== 死 ==
キングストン・アポン・テムズにあるいとこの家で生活していた[[1904年]]、74歳でこの世を去った。
この家の外壁には[[英国映画協会]]による記念プレートが掲げられている。
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[[火葬]]され、遺骨はウォーキングに葬られた。
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▲*[[写真史]]
{{commons|Eadweard Muybridge}}
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