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{{otheruses|江蘇省の現行の地級市|かつて存在した県級市|楚州淮安区}}
{{基礎情報 中国の都市 |
|name = 淮安市
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|footnotes =
}}
[[Imageファイル:漕运总督衙门旧址.JPG|thumb|300px|right|漕運総督衙門の建物]]
[[Imageファイル:镇淮楼.JPG|thumb|300px|right|鎮淮楼]]
[[Imageファイル:清江浦 中洲.JPG|thumb|300px|right|清江浦大閘口]]
'''淮安市'''(わいあん-し)は[[中華人民共和国]][[江蘇省]]の中西部に位置する[[地級市]]。[[2001年]]以前は'''淮陰市'''(わいいん-し)と称されており、同名の淮安市は[[県級市]]として淮陰市管轄とされていた(詳細は[[楚州淮安区]]を参照)。[[淮河]]の流域にあり、淮河水系の中国第4位の淡水湖・[[洪沢湖]]が西部に広がる。面積は10,100平方km、人口は534万人(2007年)でうち常住人口が484万人、非農業人口が90万人。中華人民共和国の政治家[[周恩来]]の出身地でもある。
 
==地理==
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[[明]][[清|清代]]になると淮安は[[治水]]、[[漕運]]、製塩行政の中心地とされ[[南河総督]]と[[漕運総督]]が設置され、水運と製塩により最盛期を迎えた。'''淮安府'''と河下鎮、板閘鎮、清江浦の各都市を連絡する大都市群が形成され、淮安は[[揚州市|揚州]]、[[蘇州市|蘇州]]、[[杭州市|杭州]]と並ぶ大運河上の「四大都市」と呼ばれるまでになる。
 
明代の淮安府は、現在の江蘇省の長江以北にあったわずか2箇所の「府」のうちのひとつで、その管轄範囲は黄海沿岸から内陸の広い範囲にわたり、現在の淮安市、[[塩城市]]、[[宿遷市]]、[[連雲港市]]および[[徐州市]]東部に及んだ。清代になると海州直隸州(現在の連雲港市)が分離、さらに徐州市付近に[[徐州府]]が新設されたため行政範囲は縮小した。当時の淮安府は[[山陽県]](現在の楚州淮安区)、[[清河県]](現在の淮陰区)、安東県(現在の[[漣水県]])、桃源県(現在の宿遷市[[泗陽県]])、塩城県(現在の[[塩城市]])、阜寧県(山陽県の東部に新設、現在の塩城市[[阜寧県]])の6県を管轄した。[[1761年]]には清河県城が洪水で破壊され、山陽県の清江浦鎮を清河県の新たな県治とした。
 
[[中華民国]]が建国されると、[[1914年]]([[中華民国暦|民国]]3年)に行政区画改変が行われ管轄県名の改称とともに、府級行政組織が廃止され'''[[淮揚道]]'''が設置された。清江浦は'''淮揚道'''の道治となり、これ以後淮安府城に代わり行政の中心地を形成した。[[1937年]](民国26年)に勃発した[[日中戦争]]では[[江蘇省 (中華民国)|江蘇省]]政府が鎮江から淮陰に疎開したが、[[1939年]](民国28年)3月には日本軍により占領された。[[1945年]](民国34年)に中華民国政府が実効支配権を回復すると'''清江市'''が設置されている。[[1948年]](民国37年)に'''両淮市'''と改称されたが、[[国共内戦]]の混乱によりまもなく廃止された。
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[[1996年]]には宿遷市が地級市に昇格し、沭陽県・泗陽県・泗洪県とともに淮陰市から分離した。灌雲県および灌南県は連雲港市に移り、淮陰市は淮陰県・漣水県・金湖県・洪澤県・盱眙県の5県および淮安市、清河区、清浦区を管轄するようになった。
 
[[2000年]][[12月21日]]、淮陰市は淮安市に改名された。中心はそのままもとの清江市・淮陰市のあった清河区に置かれ、もとの淮安市は楚州区に、もとの淮陰県は淮陰区に改められた。2012年には楚州区は淮安区に改名されている
 
==行政==
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*[[新長線]]
道路
*[[京滬高速道路]]、宿淮塩高速道路、寧連高速道路、塩徐高速道路
 
== 文化 ==