「小幡藩」の版間の差分

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== 概要と藩史 ==
[[小田原の役征伐]]後、小幡には[[徳川家康]]の娘婿・[[奥平信昌]]が3万石で入った。[[慶長]]6年([[1601年]])3月、前年の[[関ヶ原の戦い]]の戦功により、信昌は[[美濃国]][[加納藩]]10万石に加増移封され、翌年に1万石で[[水野忠清]]が入った。その後の[[元和 (日本)|元和]]元年([[1615年]])7月23日、[[織田信長]]の次男・[[織田信雄]]は[[大和宇陀藩]]3万石と上野甘楽郡2万石を与えられた。元和2年([[1616年]])から翌元和3年([[1617年]])まで藩主を務めた[[永井直勝]]を経て、信雄の四男・[[織田信良]]が小幡藩を立藩する。大和には信雄自身が入り、上野に対しては信良に預けた。信長の一族であるという経緯から、特別に[[四品以上に昇進する大名家一覧|国主格]]の待遇を与えられた。第2代藩主・[[織田信昌]]のときに検地が行なわれて藩政の基礎が固められた。しかし信昌の治世末期から財政難が始まり、[[宝暦]]5年([[1755年]])の第5代藩主・[[織田信右]]時代には収入が6,269両であるのに対して、支出が2倍近くの1万2,844両というとんでもないものであった。第7代藩主・[[織田信邦]]の代である[[明和]]4年([[1767年]])、[[山県大弐]]の[[明和事件]]に連座して信邦は蟄居処分となり、信邦の後を継いだ養嗣子・[[織田信浮]]は[[出羽国]][[高畠藩]]へ移された。このとき、国主格の特別待遇も廃止となった。
 
代わって上野[[上里見藩]]より、[[若年寄]]の[[松平忠恒]]が2万石で入る。歴代藩主の4人は若年寄、[[寺社奉行]]、奏者番などを歴任した。しかし藩財政の困窮化と領内の荒廃化が進み、[[寛政]]11年([[1799年]])に困窮農民救済の低利貸付金制度(恵民講)を制度化したが、効果は無かった。藩の借金であるが、[[天保]]15年([[1844年]])には収入に対して借金が10倍近くの7万4,032両にまでなっていたと言われている。幕末期には激動の波に飲み込まれて見るべきところもほとんど無く、[[明治]]元年([[1868年]])の[[戊辰戦争]]では新政府側に与して藩を維持するのが精一杯であった。翌年の[[版籍奉還]]で最後の藩主・[[松平忠恕 (小幡藩主)|松平忠恕]]は[[知藩事]]となり、明治4年の[[廃藩置県]]で小幡藩は廃されて[[小幡県]]となり、同年10月には[[群馬県]]に編入された。