「張大千」の版間の差分

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ピカソとの写真、中正勲章、亡くなった時間
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没年月日にリンク
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[[1940年]]から約2年7ヶ月に渡り[[敦煌市|敦煌]]の[[莫高窟]]に住み込み、[[壁画]]の模写に取り組む。模写は、芸術的で美しい作品となるように古ぼけた各時代の壁画の変色・剥落した部分を推定で補いながら制作された。ちなみに敦煌莫高窟における最初の模写を行ったのは、大千であるとされる。[[1942年]]にその成果が発表されるが、それによって敦煌壁画の素晴らしさが大きく広まる事になった。この時、共に莫高窟に赴いた書画家の謝稚柳([[1910年]] - [[1997年]])が「敦煌石室記」「敦煌芸術叙録」という記録を残している。
[[File:GuanTongForgery.png|thumb|upright=0.5|[[ボストン美術館]]蔵の伝 関仝([[後梁]]の山水画家。関同とも。読み:かんどう、ピンイン:Guān Tóng)の湖山清暁図軸。研究の結果、大千による贋作と確実視されている]]
[[国共内戦]]が始まった後の[[1948年]]に[[香港]]に移り、以降は[[ブラジル]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]など国外に20年以上滞在する。[[1951年]]にアルゼンチンに移り、[[1953年]]にブラジルに移住している。海外で当時流行していた印象派や立体派などに触れ、中国画に西洋の技法を取り入れた作品を制作し始める。[[ピカソ]]に面会しに行ったこともあり、写真が残っている。[[1957年]]、「秋海棠」という作品が評価され、ニューヨーク国際芸術学会において金賞を受賞。[[1959年]]にはかねてからの眼病の治療のため渡米するついでに日本に立ち寄り、在英の中国人作家・凌叔華([[1900年]]~[[1990年]])と画家の王済遠([[1893年]]~[[1972年]])と鎌倉旅行を行っている。[[1974年]]にアメリカ・カリフォルニア州太平洋大学名誉人文博士号を授与される。[[1978年]]に[[台湾]]に移住。晩年は台北に住み、水墨画に専念、[[1983年]][[4月2日]]午前8時15分、同地で心臓病により没。享年84。没後、遺族が四合院式の住居を台湾の国立故宮博物館に寄贈し、張大千紀念館(台北市士林区至善路二段三百四十二巷二号)として現在一般公開されている。死後の[[1982年]]に中正勲章が与えられた。
 
代表作に「中郎授女図」、「渓橋行船図」、「撥墨荷花図」などがある。