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[[明治時代]]に入り、 [[沖縄県の歴史#琉球処分|琉球処分]]により琉球王国が廃され[[沖縄県]]が置かれると、当社は近代社格制度により無格社とされた。『琉球宗教史の研究』によれば、沖縄県行政府では当社を村社に列することを立案したが、経済的な理由から村社列格が出来ず、また社殿その他の設備においても不備な点が多々あって村社列格が事実上不可能であることから、とりあえず無格社として残置し、追々維持拡張整備して村社に引き直す根基を充実するよう努めることになったとしている<ref name="shukyoushi5-4-2">『琉球宗教史の研究 第5編 明治の宗教政策 第4章 社寺組織の改革 第2節 神社組織の改革』より。『琉球宗教史の研究』1965年。</ref>。
 
さらに『琉球宗教史の研究』によれば、当時地元の民衆と信仰的に直接結合していたのは[[御嶽 (沖縄)|御嶽]]拝所であり、無格社となり日本政府の経済的保障がなかった当社は、その後経済的にも信仰的にも見るに耐えない無残な状態を呈することとなり、昭和14年([[1939年]])の沖縄県振興事業による復興計画に取り上げられた時には、明治末期頃まで残置していた拝殿は失せ、[[沖宮]]とともに[[昭和]]11年([[1936年]])[[国宝]]の指定を受けていた三間社流造の本殿<ref>加治順人『沖縄の神社』p143 ひるぎ社、2000年10月30日</ref>も屋根瓦はほとんど落ち、三方[[垂木]]のうちニ方失せ、全体的に腐朽荒廃してる状況であった<ref name="shukyoushi5-5-1">『琉球宗教史の研究 第5編 明治の宗教政策 第5章 神社の列格並に創立 第1節 琉球八社』より。『琉球宗教史の研究』1965年。</ref>。
 
この本殿も激しい[[沖縄戦]]の中で砲撃を受け、建物の礎石柱2本および[[梁 (建築)#梁の意匠|虹梁]]を残し爆散してしまった。現在見ることが出来る社殿は、残った礎石と資材を基に[[昭和]]47年([[1972年]])復元したものである<ref>社務所脇の銅板『史跡 末吉宮跡』による。</ref>。
 
== 文化財 ==