「親任官」の版間の差分

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親補職に「軍事参議官」を追記。他、校正。
==帝国陸軍における軍事参議官制度の「悪用」==を設置。
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=== 主な親補職 ===
====陸軍====
[[参謀本部 (日本)|参謀総長]]、[[教育総監]]、[[航空総監]]<ref>[[額田坦]]『陸軍省人事局長の回想』芙蓉書房、{{和暦|1977}}、80頁。</ref>、[[総軍総司令官]]、[[方面軍司令官]]、[[軍司令官]]、[[師団長]]、留守師団長、[[東京警備司令官]]、[[関東戒厳司令官]]、[[東京防禦総督]]、[[東京衛戍総督]]、[[侍従武官長]](歴代侍従武官長は陸軍からのみ親補されている)、[[軍事参議院#特に軍事参議官に親補された陸海軍将官|軍事参議官]]
====海軍====
[[軍令部総長]]、[[連合艦隊司令長官]]、[[艦隊]][[司令長官]]、[[鎮守府 (日本海軍)|鎮守府]]司令長官、[[軍事参議院#特に軍事参議官に親補された陸海軍将官|軍事参議官]]
 
大将もしくは中将が就任した[[陸軍大臣]]と[[海軍大臣]]は親補職ではなく、国務大臣の親任官とされた。陸海軍大臣は内閣閣僚であるので、[[内閣総理大臣]]や各省大臣同様に親任官とされたのである。[[秦郁彦]]編『日本陸海軍総合事典』(初版)p709陸軍大臣と海軍大臣が親補職に分類されているがそれは誤りである。
 
親補職の親任官待遇について現階級に関する規定はなかったが、親補職には大将もしくは[[中将]]を補するとされていたため、[[少将]]以下が親任官待遇となることはあり得なかった(終戦直前に、[[本土決戦]]用の急造師団の師団長に[[片倉衷]]・[[久米精一]]少将の師団長を充当した誕生、親補職とているなかった<ref>『陸軍省人事局長の回想』 172頁。</ref>)。
 
なお、[[元帥 (日本)|元帥]]は元帥府に列せられた陸海軍大将に与えられる称号であるため、官としては陸海軍大将の資格を以て親任官とされる。ただし[[宮中席次]]は当然に元帥の方が上になる。
 
また、陸海軍省の次官は親補職ではなかったが、下手な親補職より大きな権限があった。[[豊田貞次郎]]が鎮守府司令長官時代に「いま自分が親補職にあるからといって次官就任をいやがるなどと思わないでほしい」と[[山本五十六]]に手紙を出したこと事例がある。また、[[1944年]]に陸軍次官の[[富永恭次]]が親補職の第4航空軍司令官となったが、これは富永の親分だった[[東条英機]]の失脚に伴う左遷人事であった
 
==親任官待遇==
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:陸軍司政長官、海軍司政長官、陸軍事務嘱託又は海軍事務嘱託にして軍占領地における枢要の職に在り識見経歴特に優秀なる者に付きては、特に親任官の待遇を賜うの奏請をなすことを得。
:かつて親任官たりし者又は親任官の待遇を賜りたる者に対しては、特に親任官の待遇を賜うの奏請をなすことを得。
 
;「特に親任官の待遇を賜ふ」という辞令が出た具体例
:[[真崎甚三郎]]陸軍中将が{{和暦|1932}}1月に参謀次長に補された時<ref>[http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_A03023464200?IS_STYLE=default&IS_LGC_S32=&IS_TAG_S32=&IS_KEY_S1=%E7%9C%9F%E5%B4%8E%E7%94%9A%E4%B8%89%E9%83%8E&IS_TAG_S1=InfoD&IS_KIND=SimpleSummary& アジア歴史資料センター レファレンスコード A03023464200 『特ニ親任官ノ待遇ヲ賜フ 参謀次長陸軍中将 真崎甚三郎』]</ref>。
:[[井上成美]]海軍中将が{{和暦|1944}}8月に海軍次官に補された時<ref>[http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_A03023548800?IS_STYLE=default&IS_LGC_S32=&IS_TAG_S32=&IS_KEY_S1=%E4%BA%95%E4%B8%8A%E6%88%90%E7%BE%8E%20%E8%A6%AA%E4%BB%BB%E5%AE%98&IS_TAG_S1=InfoD&IS_KIND=SimpleSummary& アジア歴史資料センター レファレンスコード A03023548800 『特ニ親任官ノ待遇ヲ賜フ 海軍次官 井上成美』]</ref>。
 
==帝国陸軍における軍事参議官制度の「悪用」==
帝国陸軍では、親補職にあった中将が、親補職でない職に就く際に、「格下げ」としないため、親補職たる軍事参議官を本職、親補職でない職を兼勤させる例があった。最後の陸軍省人事局長であった[[額田坦]]中将は「これは軍事参議官制度の悪用というべきであろう」と評している。<ref>『陸軍省人事局長の回想』 227頁。</ref>
 
具体例。
 
;[[鈴木孝雄]]
:士候2期。{{和暦|1924}}2月に[[第14師団 (日本軍)|第14師団]]長に親補される。同年8月に[[陸軍技術本部]]長(非親補職)に転じる。{{和暦|1926t}}7月に軍事参議官に親補され、引き続き、陸軍技術本部長を兼勤。{{和暦|1927}}7月に大将に親任される。{{和暦|1928}}3月8日、陸軍技術本部長の兼勤を免じられ、軍事参議官の専任となる。{{和暦|1933}}3月に予備役。(軍事参議官が本官であった期間:6年8ヶ月)
 
;[[土肥原賢二]]
:士候16期。{{和暦|1937}}3月に[[第14師団 (日本軍)|第14師団]]長に親補される。{{和暦|1938}}6月に参謀本部付。{{和暦|1939}}5月に[[第5軍 (日本軍)|第5軍]]司令官に親補される。{{和暦|1940}}6月に参謀本部付、同年9月に軍事参議官に親補され、同年10月に陸軍士官学校長(非親補職)を兼勤。{{和暦|1941}}4月に大将に親任される。同年6月、軍事参議官 兼 陸軍士官学校長から、[[陸軍航空総監部|航空総監]]に親補される。(軍事参議官が本官であった期間:9ヶ月)
 
;[[篠塚義男]]
:士候17期。{{和暦|1938}}6月に[[第10師団 (日本軍)|第10師団]]長に親補される。{{和暦|1939}}9月に[[第1軍 (日本軍)|第1軍]]司令官に親補される。{{和暦|1941}}7月に軍事参議官に親補され、陸軍士官学校長(非親補職)を兼勤。{{和暦|1942}}7月に依願<ref>『陸軍省人事局長の回想』 411頁。</ref>予備役。(軍事参議官が本官であった期間:1年)
 
==前官礼遇==
親任官のうち内閣総理大臣、枢密院議長、国務大臣、宮内大臣、内大臣の職にあった者について、一定の年数以上在職した者は、退官の後に特に勅旨を以て、前官の礼遇を付与されることがあった。前官の礼遇を受けると、[[宮中席次]]などで優遇を受けた。
;内閣総理大臣、枢密院議長又は国務大臣たる前官礼遇付与奏請内規(昭和14年9月6日裁可)<ref>公文別録・親任官任免・明治二十二年~昭和二十二年・第十巻・昭和十九年、「特ニ前官ノ礼遇ヲ賜フ 嶋田繁太郎」(ref.A03023544100)、国立公文書館アジア歴史資料センター。</ref>
:内閣総理大臣、枢密院議長又は国務大臣たる前官礼遇付与奏請内規を左の通り定む
#内閣総理大臣たる前官の礼遇は左に掲げる者にこれを賜う
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#宮中席次の異なる官の前官の礼遇2以上の資格ある場合においては宮中席次の高き官の前官の礼遇を賜う。
#内閣総理大臣、枢密院議長又は国務大臣と宮内大臣又は内大臣とを歴任し宮内大臣又は内大臣を退官したる際第4号本文の規定により各官の在職年数を通算して4年以上にわたる者に付きては時宜により内閣総理大臣、枢密院議長又は国務大臣たる前官の礼遇を賜う。
 
;「特に前官の礼遇を賜ふ」という辞令が出た具体例。
:[[嶋田繁太郎]]海軍大将が、{{和暦|1944}}7月17日に海軍大臣を免じられた時<ref>[http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_A03023544100?IS_KIND=RefSummary&IS_KEY_S1=A03023544100&IS_STYLE=default&IS_TAG_S1=reference_code& アジア歴史資料センター レファレンスコード A03023544100 『特ニ前官ノ礼遇ヲ賜フ 嶋田繁太郎』]</ref>。
 
 
==脚注==