「ガストン (オルレアン公)」の版間の差分

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'''ガストン・ジャン・バティスト・ド・フランス'''(Gaston Jean Baptiste de France, [[1608年]][[4月25日]] - [[1660年]][[2月2日]])は、[[ブルボン朝]][[フランス王国|フランス]]の王子。[[オルレアン公]](duc d'Orléans)。
 
フランス王[[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]]と王妃[[マリー・ド・メディシス]]の3男として、[[フォンテーヌブロー]]で生まれた。兄に[[ルイ13世 (フランス王)|ルイ13世]]、姉に[[スペイン]]王[[フェリペ4世 (スペイン王)|フェリペ4世]]妃[[イサベル・デ・ボルボン|エリザベート]](イサベル)]]、[[サヴォイア公国|サヴォイア公]][[ヴィットーリオ・アメデーオ1世]]妃[[クリスティーヌ・ド・フランス|クリスティーヌ]](クリスティーナ)]]、妹に[[イングランド王国|イングランド]]王[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]妃[[ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス|アンリエット]](ヘンリエッタ)]]がいる。
 
はじめ[[アンジュー公]]に叙され、[[1626年]]にオルレアン公、[[ブロワ]]伯、[[シャルトル]]伯となった。[[1628年]]、当時[[ユグノー]]の牙城であった[[ラ・ロシェル]]包囲に軍を率いて参加。また、母マリーと[[リシュリュー]][[枢機卿]]の政府に楯突き、[[ラングドック]]で王軍に完敗したのち[[フランドル]]に逃亡した。やがてルイと和解して帰国するが、[[1635年]]にリシュリューに対して陰謀を企み国外へ逃げ、王と枢機卿再度政府に服従させられた。
 
ガストンは服従後もすぐにまた同じ陰謀を繰り返した。、[[1642年]]ルイ13世の寵臣[[サン=マール侯爵アンリ・コワフィエ・ド・リュゼ|サン=マール侯]]を操り、リシュリュー暗殺を画策したが失敗した。翌[[1643年]]ルイ13世が亡くなると王国の陸軍大将となり、フランス北部でスペイン軍と戦った。[[1646年]]にはアランソン公になった。[[フロンドの乱]](1648年 - 1653年)に際して、甥[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]の重臣[[ジュール・マザラン|マザラン]]枢機卿に睨まれ、[[1652年]]に私領ブロワに蟄居させられ、そこで亡くなった。
 
==子女==
[[ファイル:Anthonis van Dyck 018.jpg|right|thumb|150px|オルレアン公爵夫人マルグリット]]
1626年8月、[[ナント]]で[[ブルボン家]]支流のモンパンシエ公アンリ・ド・ブルボンの相続人[[マリー・ド・ブルボン=モンパンシエ|マリー]]と結婚、1女をもうけたが、マリーは翌年に死去した。
*[[アンヌ・マリー・ルイーズ・ドルレアン|アンヌ・マリー・ルイーズ]](1627年 - 1693年) - ローザン公[[アントナン・ノンパル・ド・コーモン|アントワーヌ・ド・コーモン]]と結婚
 
1632年1月、[[ナンシー]]で[[マルグリット・ド・ロレーヌ (1615-1672)|マルグリット・ド・ロレーヌ]]([[ロレーヌ公]][[フランソワ2世 (ロレーヌ公)|フランソワ2世]]の娘、[[シャルル4世 (ロレーヌ公)|シャルル4世]]の妹)と結婚、1男4女をもうけた。
*[[マルゲリータ・ルイーザ・ディ・ボルボーネ=オルレアンス|マルグリット・ルイーズ]](1645年 - 1721年)  - [[トスカーナ大公国|トスカーナ大公]][[コジモ3世・デ・メディチ|コジモ3世]]と結婚、のち後に離婚
*[[エリザベート・マルグリット・ドルレアン|エリザベート・マルグリット]](1646年 - 1696年)  - [[ギーズ公]][[ルイ・ジョゼフ (ギーズ公)|ルイ・ジョゼフ]]妃
*[[フランソワーズ・マドレーヌ・ドルレアン|フランソワーズ・マドレーヌ]](1648年 - 1664年)  - [[サヴォイア公国|サヴォイア公]][[カルロ・エマヌエーレ2世]]妃
*ジャン・ガストン(1650年 - 1652年)
*マリー・アンヌ(1652年 - 1695年)
 
{{先代次代|[[オルレアン公]]|1626年 - 1660年|[[ニコラ (オルレアン公)|ニコラ]]|[[フィリップ1世 (オルレアン公)|フィリップ1世]]}}
 
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